、夕方になって二文字屋を訪ねた。
もう逢えないのかと哀しんでいたお軽は、内蔵助の訪問をうけて、どのように悦んだことであろう。しかし、それも束の間で、いよいよ明日は、
「岡山の国家老池田玄蕃殿のお招きにより岡山へ参る」
と、いう内蔵助のいつわりの言葉をきいてお軽も二文字屋もがっかりしてしまったのである。
二文字屋が、せめてもの名残りにと、ととのいもてなした酒肴を前にして、内蔵助もさすがにもののふ[#「もののふ」に傍点]の感慨に胸をあつくしたことであろう。
お軽はうち萎れながらも、銚子をとって内蔵助に別れの酒をすすめた。
内蔵助は、それを受けながら、何を思ったか、
「軽女、当分の別れに、一曲……」
と、琴を所望した。お軽は、この哀しい今の身に、琴など……と思ったのであるが、お別れの一曲と所望されては、それを断わりもならず、それでは拙い一手を――と言って、秘愛の琴をとり出し、松風を十三絃の上に起こし、さて、何を弾じようかと思案した末、内蔵助の私《ひそ》かなる壮行を祝して、
(七尺の屏風も躍らばよも踰《こ》えざらん。綾羅の袂も曳かばなどか絶えざらん)
と歌って、絃の音にそれを託したのである。
その歌は、内蔵助の胸にどう響いたか、内蔵助はにっこり微笑して、
「さらば……」
と、言って二文字屋を辞し、翌朝早く東へさして下って行ったのである。
ある人は言う。
(七尺の屏風も躍らばよも踰えざらん)
の一句は、内蔵助には、
(吉良家の屏風高さ幾尺ぞ)
と、響いたことであろう……と。
哀しみを胸に抱きながら、七尺の屏風も躍らばよも踰えざらん、と歌い弾じたお軽の奥ゆかしい心根。
それをきいて莞爾とうなずいた内蔵助の雄々しい態度。
かなしみの中にも、それを露わに言わないで琴歌《ことうた》にたくして、その別離の情と、壮行を祝う心とを内蔵助に送ったお軽こそ、わたくしの好きな女性の型の一人である。
このお軽の心情を描いたのは明治三十三年である。「花ざかり[#「花ざかり」は底本では「花ぎかり」]」「母子」の次に描いたもので、この故事に取材した「軽女惜別」はわたくしにはなつかしい作品の一つである。
底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
1976(昭和51)年11月10日初版発行
1977(昭和52)年5月31日第2刷
入力:川山隆
校正:鈴木厚
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