古い記憶を辿って
山元春挙追悼
上村松園
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)代赭《たいしゃ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き](昭和九年)
−−
その頃の絵は今日のように濃彩のものがなくて、いずれもうすいものでした。ちょうど春挙さんの海浜に童子のいる絵の出た頃です。そのころは、それで普通のようにおもっていたのでした。今日のは、何だか、そのころからみるとずっと絵がごつくなっているとおもいます。
〈法塵一掃〉は墨絵で、坊さんの顔などは、うすい代赭《たいしゃ》で描かれていました。尤も顔の仕上げばかりではなしに、一体にうすい絵でした。この作品が出品された年は、ちょうど栖鳳先生が、西洋から帰られた年でして、獅子の図が出品されました。その時分に屏風などが出ていましたが、しかしまたとても今日の展覧会などに出品されそうもないような小さな作品も出ていました。寸法に標準というものがまるでなかったのでした。
私が二十五、六か七、八歳頃、森寛斎翁はなくなられましたが、その頃の春挙さんには、私もよくおめにかかっていました。塾がちがったものですから、これと言って、まとまったお話もうかがった事もありませんでしたし、ゆっくりおめにかかるというような機会もありませんでしたが、その頃、お若い内から春挙さんは、すっくりした、いかにも書生肌の大変話ずきの人でした。毒のない安心して物の言えるいい人であったという事は、私にも言えます。
私の若い時分は、今のように、文展とか、帝展とかといった、ああいう公開の展覧会というものが、そんなに沢山ありませんでしたので、文展時代の作品については、はっきりとした記憶がまだ残っています。春挙さんの〈塩原の奥〉とか、〈雪中の松〉とかは、いまだにはっきりとした印象を残しています。
青年絵画共進会の、海辺に童子がはだかでいる絵は、その筆力なり、裸体の表現などが、当時の私共には、大変物珍しく、そして新しいもののように感ぜられたのでした。取材表現のみならず、色彩に於いても、新しい感覚に依っていたものでありました。
おなくなりになる少し前の事でした。電車で、所用があって外出しましたとき、ふとみると、私の座席の向こう側に春挙さんが偶然にも乗り合わせていられました。その時ちょうど私の方の側が陽が照って来ました
次へ
全2ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
上村 松園 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング