。わたしは「では一時間でも二時間でもお眼ざめまで待っているから」と言って、やがて起き出られた禅師をお待ちしました。そして凡そ二時間余り別にこれと言ってなやみを打ち明けるでもなく禅師の法話をお聴きしているうちに、すーと雲が引くようになごやかな気になったのです。芸術家として芸術上の悩みに突出る度に、わたしはその後芸術三昧のうちに、信仰を抱いていくようになった。それにわたしの母が熱心な仏教信者で普門品《ふもんぼん》などを誦しているうちに、今では全部覚えてしまいました。だからと言ってわたしは、他人に信心を強いることはない。信心はわたしの狭い気持ちのうちでは、自分自身で築いて行くべきものだと思っている。そして又、それがどんな形になって来たところで己れの打ち込んで行く己れ自身の境地があったら、それは宗教と呼んでもいいと思っている。これが間違っているかどうか、わたしはその間違いを指摘されたところで今更改めようとは思わない。
わたしはよく保養旅行に出る。その旅行の途中神社や仏閣があれば廻り道でもお参りすることにしている。そうするとわたしの気持ちが和やかになるのである。わたしの芸術がわたしのものである
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