苦楽
ある人の問いに答えて――絵を作る時の作家の心境について私はこう考えています。
上村松園
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)畢竟《ひっきょう》
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一
画の作家が、画をつくることについて、ある作家は、これを苦しみだと言います、それからある作家は、楽しみだと言います。
作家が画を作ることが、果たして苦しみでしょうか、また楽しみでしょうか。
これは考えようによって、どちらも本とうだと言えましょう。私は画を作ることは、私ども作家にとって、苦しみでもあり、また楽しみでもあると言いたいと思います。
それはどうして苦しみであり、楽しみであると言えるでしょうか。これはいずれにしても、作家でないと分らない心持ちだと思います。作家であって、初めてこの真実味が分るのだと考えます。
二
画を作ることは、実際苦しいことです。苦しみなくしては、価値の善悪上下は別として、これでどうにか満足しえられるというだけの作品は生まれて来ないだろうと思います。
だが、しかし、苦しみだけでは、画は出来ないと思います。少なくとも、自分に納得しえられるような作品は、生まれて来ないだろうと考えます。
画は、楽しみを要求します。楽しんで作らないでは、その画は畢竟《ひっきょう》、その作家の期待を裏切るに相違ありません。
と言って画は、楽しみのみでは決して出来ないでしょう。制作は、苦しみの中に強く楽しみを捜《さが》しています。
三
画を作ることは、実際苦しいことです。ですけれど、作家としては、その苦しみを楽しむのでなくしては、いけないと思います。苦しみを楽しむというのは、甚だ矛盾しているようですが、決してそうではありません。
この制作の苦しみは、作家には決して単なる苦しみではない筈です。その苦しみは、やがてその作家にとって、無上の楽しみである筈です。この意味において、畢竟作家がある作品を制作するのには、心境に無上の楽土を現顕し得るようでないといけないと思います。
作家が制作に没頭している時、そこには無我の楽土が広がっていて、神《しん》澄み、心和やかにして、一片の俗情さえも、断じて自分を遮りえないという、こういう境地に辿りつかないでは、うそだと思います。
四
苦しみを苦しみと感じ、楽しみを楽しみと思うことは、当然すぎるほど当然なことです。けれども、芸術の作家が、その作品を生み出す苦しみを、単なる苦しみと考えることは、あまりにも作家として、芸術的余裕がないものだと思います。私ども作家は、少なくともその苦しみを楽しむだけの、余裕があって欲しいと考えます。
これは画のことではありませんが、私は日頃、謡曲を少しばかり習い覚えて、よく金剛巌氏の会などへ出かけます。
私はこの謡曲は、まだ初心同様のもので、申すまでもなく如何《いか》がわしいものですけれど、しかし、これもやはり画と同じ意味において、楽しむということを第一の目標にしております。
謡の会の席上などで、私が謡《うた》わねばならぬことになった時、席上には、えらい先生方や先輩の上手な方がずらりと並んでおり、ちょっと最初は謡いにくく思っていますが、少し経つと何もかも忘れて、案外大きな声をはりあげて、自分ながら楽しく謡い終わるという次第です。
私の謡い方が、まるで無我夢中で、少々節回しなどはどうあろうと、一向構わず、堂々とやっているには呆れる、と松篁《しょうこう》なども言っているそうです。
しかし、私はそれでいいと自分だけできめています。金剛先生なども、あなたが謡っている態度をみていると実に心の底から愉快でたまらぬといったように思える、それが何よりいいのですと言っておられます。
五
この気持も、画の制作の場合と同じだと私は思っています。
画を制作する、謡の修業をする、決して苦しくないことはないものです。しかし、作家はその苦しみを楽しむ――そういう気持ちが制作の上の、第一の条件ではないかと思うのです。
近頃、制作の苦しみだけを高唱している若い作家が少なくないというようにも聞きます。で、私は、その苦しみを楽しみうる作家こそは、真の作家の襟度《きんど》であるということをここに申してみたいつもりなのです。
底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
1976(昭和51)年11月10日初版発行
1977(昭和52)年5月31日第2刷
初出:「大毎美術 第十四巻第二号」
1935(昭和10)年2月
入力:川山隆
校正:鈴木厚司
2008年7月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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