とは、当然すぎるほど当然なことです。けれども、芸術の作家が、その作品を生み出す苦しみを、単なる苦しみと考えることは、あまりにも作家として、芸術的余裕がないものだと思います。私ども作家は、少なくともその苦しみを楽しむだけの、余裕があって欲しいと考えます。
これは画のことではありませんが、私は日頃、謡曲を少しばかり習い覚えて、よく金剛巌氏の会などへ出かけます。
私はこの謡曲は、まだ初心同様のもので、申すまでもなく如何《いか》がわしいものですけれど、しかし、これもやはり画と同じ意味において、楽しむということを第一の目標にしております。
謡の会の席上などで、私が謡《うた》わねばならぬことになった時、席上には、えらい先生方や先輩の上手な方がずらりと並んでおり、ちょっと最初は謡いにくく思っていますが、少し経つと何もかも忘れて、案外大きな声をはりあげて、自分ながら楽しく謡い終わるという次第です。
私の謡い方が、まるで無我夢中で、少々節回しなどはどうあろうと、一向構わず、堂々とやっているには呆れる、と松篁《しょうこう》なども言っているそうです。
しかし、私はそれでいいと自分だけできめています。金剛先生なども、あなたが謡っている態度をみていると実に心の底から愉快でたまらぬといったように思える、それが何よりいいのですと言っておられます。
五
この気持も、画の制作の場合と同じだと私は思っています。
画を制作する、謡の修業をする、決して苦しくないことはないものです。しかし、作家はその苦しみを楽しむ――そういう気持ちが制作の上の、第一の条件ではないかと思うのです。
近頃、制作の苦しみだけを高唱している若い作家が少なくないというようにも聞きます。で、私は、その苦しみを楽しみうる作家こそは、真の作家の襟度《きんど》であるということをここに申してみたいつもりなのです。
底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
1976(昭和51)年11月10日初版発行
1977(昭和52)年5月31日第2刷
初出:「大毎美術 第十四巻第二号」
1935(昭和10)年2月
入力:川山隆
校正:鈴木厚司
2008年7月30日作成
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