京の夏景色
上村松園
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)床几《しょうぎ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)年|嵩《かさ》な
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#歌記号、1−3−28]
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京都の街も古都というのはもう名ばかりで私の幼な頃と今とではまるで他処の国のように変ってしまってます。これは無理のないことで、電車が通り自動車が走りまわってあちこちに白っぽいビルデングが突立っている今になって、昔はと言っても仕様のないのは当りまえのことでしょう。加茂川にかかっている橋でも、あらかたは近代風なものに改められてしもうて、ただ三条の大橋だけが昔のままの形で残っているだけのことです。あの擬宝珠の橋とコンクリートのいかつい四条大橋とを較べて見たら時の流れというものの恐ろしい力が誰にも肯けましょう。私には三条の橋のような昔の風景がなつかしいには違いがありませんが、昔は昔今は今だと思うとります。私が五つ六つの頃結うたうしろとんぼ[#「うしろとんぼ」に傍点]などという髪を結っている女の子は今は何処に行ったとて見ることは出来ないでしょう。ちか頃の女の子はみなおかっぱにして膝っきりの洋服を着ていますが、なかなか愛らしくて活溌で綺麗です。そうした女の子達を見ていると昔のつつ[#「つつ」に傍点]をきゅうとしばったうしろとんぼ[#「うしろとんぼ」に傍点]の時代は、あれは何時のことだったのかと我れといぶかしく思うくらいなのですから。
でも、なつかしさはなつかしさですし、昔のよさはよさ、今でもはっきりとまるで一幅の絵のように何十年か前の京都の街々のすがたを思い浮べて一人楽しんでいる時がないでもありません。
私が十七、八の頃、夕涼みに四条大橋に行って見ると、橋の下の河の浅瀬には一面に床几《しょうぎ》が並べられ、ぼんぼりがとぼって、その灯かげが静かな河面に映って、それはそれは何とも美しいものでした。沢山の涼み客がその床几に腰をかけ扇子を使いながらお茶をすすったり、お菓子をつまんだり、またお酒を汲みかわしたりして居るのです。橋際にふじや[#「ふじや」に傍点]という大きな料理屋があって河原に板橋を渡して仲居さん達がお客のおあつらえのお料理を入りかわり立ちかわり運んでゆくのです。これを橋の上から眺めているのは私だけではございませんでした。川風の涼しさ、水の中の床几やぼんぼり、ゆらゆらと小波にゆれる灯影、納涼客、仲居さんなどと、賑やかなくせに涼し気なそしてのんびりとした夏景色でございました。これは本当に昔々の思い出話なのでございます。いま四条大橋に行って見たところで決してその橋の下で、人達がそんな風にして夏の短かな夜を楽しんだなどということは夢にも考えることが出来ません。ただ、四条河原の夕涼みは都の夏の景物の代表的なものだったので絵に描かれて残っているものは相当多いようです。
また、これも同じようなお話ではございますが、夕景に川の浅瀬の床几に腰下ろした美人が足を水につけて涼んで居るのも本当に美しいものでした。目鼻立ちの整ったすんなりした若い婦人でなくても、そうした時刻、そうした処で見受ける女姿というものはやはり清々しゅう美しく人の眼にうつるのでございました。
夏の嬉しいものの一つに夕立がありますが、思いきって強い雨が街々の熱気をさっと洗いながして過ぎさった後なぞに御所の池の水が溢れたりすることもございまして、私の家の筋が川みたいになり、そこらの角で御所の池の大きな大きな鯉がおどっていたりして町内の子供衆達がキャッキャッと声をあげてはしゃぎ騒いだりする、これも夏のほほえましい思い出の一つでございます。
なんと言っても旧暦のお盆の頃は街全体が活気づいて賑々しく、まるでお祭りのようでございます。私の幼い頃はお盆になると日の暮れに行水を浴びると、女の子達は紅提灯をてんでに買うて貰って、自分の家の紋をつけ、東、西の町内の子達がみな寄りあつまって、それぞれの提灯の絵を比べあったりいたします。何処の子もみな寄って来て揃うと年|嵩《かさ》な女の子が列をつくって、
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※[#歌記号、1−3−28]さーのやのいとざくら
ぼんにはどこにもいそがしや
ひがしのお茶屋の門口に
ちとよらんせ、はいらんせ
[#ここで字下げ終わり]
そんな可愛らしい歌をうとうて、ずっと二列に二人ずつ並ばして、小さな子供を先に、そこらの町内を練って歩く。小さな女の子にはそれが豪《えら》い楽しみなものでございました。
前にも申したうしろとんぼや、おたばこぼん、それからふくわげ、ふくわげと申しますのは阿波の十郎兵衛に出て来るお弓の結っている髪なのですが、そんな風な髪に銀で作ったすすき[#「すすき」に傍点]のかんざしやら、びいどろの中に水が入ってる涼しいのなどを※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]したりしてぐるぐるぐるぐる町内を練り歩いたものでした。何せその頃は明治もはじめの頃ですよって自動車だのバスだののややこしいものも通らしまへんよって、町の真中をずっと[#「ずっと」は底本では「ずつと」]長く連なって歌って歩けたのでございました。
男の子は男の子で、
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※[#歌記号、1−3−28]よいさっさにゆきましょか
[#ここで字下げ終わり]
と、女の子よりはちょっと大きめの提灯の、これは白いのに同じように定紋つけたのを手に手に持ちながら、
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※[#歌記号、1−3−28]よいさっさ、よいさっさ
江戸から京まではえらいね
[#ここで字下げ終わり]
そんな風にうたって男の子同志で町内を練り歩いたものでした。
その頃にはまた、おしろんぼ[#「おしろんぼ」に傍点]などという遊びもありまして、これも町内で子供達が自由勝手にはねまわって遊んでました。その遊びにつくうたは、
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※[#歌記号、1−3−28]ざとのぼーえ
とさんさ、さかずきさしましょう
[#ここで字下げ終わり]
というのです。昔は道筋はすべて子供の運動場でしたが、今の子供達はもう、うっかり外では遊べなくなりました。大通りから入った横丁でも自転車やら自動車やら何やと往来が劇《はげ》しゅうなるばかりなので、それだけは昔の子供の方が幸福だったということが出来るでしょう。
ひといきは夏が好きでした。陽気で明るうてよろしのどすが、今ではあまり暑いと少々身にこたえて弱ります。
なんといっても気がしまっていいのは十月頃、恰度、きんもくせいが匂うような頃は一番頭がすっきりして身も軽うなる心地がすることです。(談)
底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
1976(昭和51)年11月10日初版発行
1977(昭和52)年5月31日第2刷
初出:「塔影」
1939(昭和14)年8月号
入力:川山隆
校正:鈴木厚司
2008年10月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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