百名に達しましたることは、日本画壇の前途のためにまことに慶賀すべきことであります」
校長の吉田秀穀先生が、そう言う演説をして大いに悦んだものです。いかに寥々たるものであったかが判りましょう。
間もなく学校に改革がありました。
絵画のほかに陶器の図案とか工芸美術の部が加わりましたので、純正美術派の先生たちは、
「からつ屋や細工屋の職人を、我が校で養成する必要はない」
と、大変な反対意見を出され、そのために学校当局とごたごたが起き、絵の先生は大半連袂辞職されてしまいました。
松年先生も、そのとき反対派であったので学校を辞められましたので、私も松年先生について学校をやめ、それから松年塾へ塾生として通うことにしました。
私は、それで一枝ものや鳥や虫をかかなくてもよいので、それ以後は大いに人物画に精進することが出来たのでした。
当時は、狩野派や四条派といえば、花鳥山水動物の方が多く人物画はあまりありませんでした。
応挙派のものに、たまには人物画はありましたが、しかし女性描写の参考はすくなすぎました。
私は出来るだけ博物館や、神社お寺の秘蔵画をみて廻ってわずかに参考としていたほ
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