ますと、六級から五級に進むのです。
五級になると一枝ものよりも少しむつかしいものを描かされます。
四級にすすむと鳥類や虫類――それから山水、樹木、岩石という風にこみ入ったところを描き、最後に一級になると人物画になるといった階段を踏んで卒業する訳です。
ところが、私は子供のじぶんから、人物画が好きで人物ばかり描いていましたので、学校の規則どおり一枝ものばかり描いて満足してはいられないのでした。
そこで一週に一度の作図の時間に人物画を描いてわずかに自分を慰めていたのです。
その人物画も、新聞に出た事件をすぐに絵にして描いたのです。
ですから一種の絵の時事解説を毎週描いていた訳です。
松年先生がある日言われました。
「人物を描きたいのはもっともであるが、学校の規則は曲げられぬから、それほど人物が描きたければ自分の塾へ学校の帰りに寄るとよい。参考を貸したり絵も見てあげるから」
私は悦び勇んで、学校が退けると、東洞院錦小路の松年先生の塾へ寄り、そこで心ゆくまで人物画を描いたり見て貰ったりしました。
当時学校に生徒の数は百人ばかりいましたが、
「画学校も大発展を遂げて、ついに百名に達しましたることは、日本画壇の前途のためにまことに慶賀すべきことであります」
校長の吉田秀穀先生が、そう言う演説をして大いに悦んだものです。いかに寥々たるものであったかが判りましょう。
間もなく学校に改革がありました。
絵画のほかに陶器の図案とか工芸美術の部が加わりましたので、純正美術派の先生たちは、
「からつ屋や細工屋の職人を、我が校で養成する必要はない」
と、大変な反対意見を出され、そのために学校当局とごたごたが起き、絵の先生は大半連袂辞職されてしまいました。
松年先生も、そのとき反対派であったので学校を辞められましたので、私も松年先生について学校をやめ、それから松年塾へ塾生として通うことにしました。
私は、それで一枝ものや鳥や虫をかかなくてもよいので、それ以後は大いに人物画に精進することが出来たのでした。
当時は、狩野派や四条派といえば、花鳥山水動物の方が多く人物画はあまりありませんでした。
応挙派のものに、たまには人物画はありましたが、しかし女性描写の参考はすくなすぎました。
私は出来るだけ博物館や、神社お寺の秘蔵画をみて廻ってわずかに参考としていたほ
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