って挨拶しました。母は、こんなずばっとしたことを時々やります。

     生粋の京娘

 けれど一方世帯持ちは実によいのでした。こんな話をすると人は何と思われるかしれませんが、母は戴きものをすると、水引きは丁寧にほどき、長い棒にあてて、紙でくるくるとまく。のしはすぐ箱にしまう。紙は上の一枚は反古紙にするが、二枚目の紙は折目があったらこてで延ばし、同じ大きさの紙と一緒にして棒の芯にまいてとっておく。使いたいとき取り出すと、どれも真新しいものと変りないのです。万事がこういうふうで実によく頭を働かせた。手まめに何事も処理していました。無駄をしないという気持はけちな気持とは全然ちがうと思います。すべき時には、ずばっとやり、わが身辺には、心を使って無駄をしない。この心がけはいつの世にも貴いものだと思います。私も母に特に言い聞かされたというのではないのですが、見よう見まねでその通りやっております。
 母は高倉三条のちきりやという、冬はお召、夏は帷子《かたびら》を売る呉服屋に通勤していた支配人の貞八の娘でした。生粋の京の町娘というわけです。
 私は親は母一人と思って育ったのです。父がないのを、さびしいと思ったこともありませんでした。私にとっては母はいいもの、一番大切なものでした。
 母は決して甘やかしてはくれませんでしたが、子煩悩でした。旅なぞに出ると、両方で案じ合って、私は母が待っている、一日も早く家へ帰りたいと思い思いしたものです。
 こんなことを思い出します。夕方から縄手の三条の親類へ母が行きましたが、夜になっても帰らない、雪もチラチラしてくる。私は心配になって「迎えに行こう」と言うと、姉は、「もう帰らはるやろ、行った先は分っているのやさかい、傘も貸してくれはるやろ」と言うのですが、私はどうしても迎えに行きたくなって、一人で行きました。
 丁度、母は腰を上げて帰ろうとしていたところでしたが、私を見て「おや」と驚いたらしいのですが、「よう来た」と大へん喜んでくれ、「おう、おう、さぞ寒かったやろ」とかじかんだ私の手を母の両の掌の中にはさんで、もんでくれました。
 母は昭和九年、八十六歳で亡くなりました。が、七十九歳で脳溢血で倒れるまで、実に壮健で、外出すると、若い者の先にたってずんずん歩くという風でした。松篁の嫁を迎えるのも見、曾孫《ひまご》三人の遊ぶのを眺めて、幸せな晩年を
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