めるつもりになってごらん。今年は私の絵がないのでさぞお店がさびしかろう。来年は、私の絵でうんと賑わしてやろうと、まあこんな風に考えてごらん。それ位の自信とうぬぼれがなくてはあかん」その母の一言で、私の粘っていた気持は、すぽっととけてしまい、それで、思い切って文展出品をやめ二ヶ月後にあったイタリアへの出品に心を定め、落ちついて構想をまとめ〈人形遣い〉を描いて入選しました。母は竹を割ったような性格で、何度か私が思いなやんだり、迷ったような時に、活路を開いてくれました。
 母はそんなたちですから、しゃっきりしすぎていたのでしょう。誰にも遠慮なくずばずばと思うことを言いました。昔、辰巳という国民新聞の記者が、よく家へ見えましたが、後に「あなたのお母さんには、よく叱られた」と言われたことがあります。

     絵心のあった血統

 私の絵の素質がどこからきたのかと言われれば、母方からと言えましょう。母も絵心のある人でした。母方の祖父も絵が好きでした。四条通りには、袋物や古本の夜店がよう出ました。母はそんなところで、古い絵の本を買うてそれを写しておりました。字はとても達筆でした。茶の壺に貼る茶名をかいた紙が、赤くなると、母は自分で書いてはりかえます。
 母の二十六、七歳のころの手になるお茶の値段表を今も記念に残していますが、亀の齢一斤六圓也、綾の友一斤五圓五十銭也などと達者なお家流の字でかいてあります。正月の松の内など、店も表戸をしめて休みますが、その頃は出入口の戸障子に、酒屋なら「酒」お茶屋なら「茶」と大文字でかいてあったものですが、母は、そんな大文字も自分で書きました。店先にさげる大提灯も提灯やのかいた「茶」の字が、しけているといって真白く張りかえさせて自分で大きく「茶」とかきました。私は、その墨をすらされたので、よう覚えています。
 私が二十八、九歳の頃、母は茶の商売をやめました。人は三十にして立つと言いますが、私も絵を描いて立ってゆけそうでしたので、母は私を絵をかく人らしい環境におこうと考えて商売をやめ、私が三十の年には、御池の車屋町に上品な家があったので、そこへ移り住みました。母は茶商売をやめる時、茶壺に残った沢山のお茶を「長年御ひいきに預りまして有難うございました」と言って、いつも玉露を買ってくれるところには玉露、煎茶のところは煎茶、お薄のところへはお薄と、全部配
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