五年か六年のころ、はじめて図画の時間というものが出来ましたが、そのときはとても嬉しかった。
 図画の時間が出来てから学校へゆくのがたのしみになってしまいました。
 そのとき教えていただいた先生が中島真義という方ですが、最近八十五歳で歿《な》くなられるまで、ちょいちょい私の家へ遊びに来られて、あの頃の話も出ました。

 私は遊歩の時間でも皆と一緒に遊ばないで運動場の隅で石盤に絵ばかりかいていました。
 友だちが寄って来て、私が常子というのでみんなが、
「つうさん、うちのにも描いてな」
 と、言ってさし出すのです。私はいい気持ちになって、花やら鳥やら人物やらを、それに描いてやったものです。

 その友だちはまた日曜になると家へ集まってくるので、私はいろいろ[#「いろいろ」は底本では「いろいい」]の髪の形を考えては、その女の子たちの髪を結ってあげたもので、研究しているうちに、どんな人はどのような髪を結うたらいいかが判り、それが将来絵を描く上に大へん役立ちました。
 私は私流の髪もずいぶん考案しましたが、子供心に、むかしの型の髪を、なるほどよく考えた、ええ型やな――と思ったものでした。

 中島先生は私の絵に見どころを感じなさったのか、いつでも、しっかり描けよ、と激励して下さって、ある時、京都市中の小学校の展覧会に私の絵を出品させて下さるほどでした。
 私はそのとき煙草盆を写生して出したのですが、それが幸い入賞して御褒美に硯をいただきました。
 この硯はながらく私の側にあって、今でも私の絵の一助をつとめていますが、この硯をみるたびに中島先生のご恩をしみじみと感じるのであります。

 小学校のときに、もう一人前の女の着物や帯や髪のことが判っていたので、よく近所の人が、着物や帯のことをたずねに来られたことがありました。
 将来美人画に進もうという兆しがそのころからあったとみえて、女性の画ばかり描いていたのが、自然に覚えこんでしまったものでありましょう。

 そのような訳で、小学校をすますと画学校へ入りましたのも、べつだん画で身を立てようという訳ではなく、
「好きなものなら画の学校でも行っていたらよかろう」
 母がそう言ってやって下さったものなのです。小学校でも絵の時間は特別に念入りに勉強した私ですから、画学校へゆけば天下はれて画がかけるというので、私はどんなに嬉しかったことでしょう。
 私は、そのときばかりは、母の前で泣かんばかりにして感謝したものでした。
 私の画道へのスタートは、この画学校をもって切られたと言っていいのです。
 画学校に入る話が決まったとき、子供ごころにも、何かしら前途に光明を見出した思いをいだきました。



底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
   1976(昭和51)年11月10日発行
入力:鈴木厚司
校正:川山隆
2007年4月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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