ことですから、ずいぶんとませていた訳です。
字体も大きく、和綴じの本で、※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵もなかなか鮮明でしたからお手本には上々でした。
北斎の絵は非常に動きのある力強い絵で、子供心にも、
「上手な絵やなあ」
と思って愛好していたものです。
貸本屋というのは大抵一週間か十日ほどで次の本と取り替えにくるものですが、その貸本屋はいたってのん気で、一度に二、三十冊持って来るのですが、一ヵ月経っても三ヵ月しても取りに来ません。
四ヵ月目に来たかと思うと、新しい本をもって来て、
「この本は面白いえ」
と言って置いてゆき、前の本を持って帰るのを忘れるという気楽とんぼでした。
廻りに来るのは、そこの本屋の息子ですが、浄瑠璃に大へん凝って、しまいには仕事をほり出して、そればかりうな[#「うな」に傍点]っている仕末でした。
息子の呑気さに輪をかけたように、その貸本屋の老夫婦ものんびりとしたいい人達でした。
いつでも店先で、ぼんやりと外を眺めていましたが、とき折り私が借りた本を返しにゆくと、
「えらいすまんな」
といって、色刷りの絵をくれたりしました。店にはずいぶんたくさんの本があり、私の好きな絵本もありました。
御一新前に、その老夫婦が勤皇の志士をかくまったそうですが、その志士がのちに出世して東京で偉い人になったので、
「お礼返しに息子さんを学校へ出してやろう」
と言われたので、老夫婦は息子をつれて東京へ行ってしまいましたが、その時たくさんの本を屑屋へ払い下げて行ったそうですが、あとでそのことをきいて、
「あれをたくさん買って置けばよかった」
と残念におもいました。
母が用事で外出をすると、留守の私は淋しいので、母の鏡台から臙脂《べに》をとり出して、半紙に、それら北斎の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵をうつしていましたが、母は帰って来られると必ず、二、三枚の絵を土産に下さいましたことも、今は遠い思い出となってしまいました。
小学校時代
仏光寺の開智校へ入学したのは、七つの年でした。
絵が好きなものですから、ほかの時間でも石盤に石筆で絵を描いたり、庵筆(鉛筆のことを当時はそうよびました)でノートに絵をかいたりして楽しんでいました。
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