「草紙洗」を描いて
上村松園

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)草紙洗《そうしあらい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)随分|根《こん》を

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「兵」の「丘」に代えて「白」、第3水準1−14−51]
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     ○

 わたくしの夢幻の国、思慕の華、それはつねにこの世の芸術の極致の境にひろがっている能楽です。わたくしは能楽をこそ人間界における芸術への一と筋辿るべき微妙な路だと思っています。

 わたくしがこんどの文展に出品したのは能楽にある小町の“草紙洗《そうしあらい》”ですが、しかしこれは能楽そのものをそのままに取ったのではありません。小町の描出を普通の人物に扱ったものですから、画面の小町は壺織の裲襠《うちかけ》に緋の大口を穿《うが》っているのは、能楽同様な気持ですけれども、その顔には面《おもて》を着けてはおりません。ですが、面※[#「兵」の「丘」に代えて「白」、第3水準1−14−51]《めんぼう》を能楽の面に型どっているところに、十分能楽味を保たしたわたくしの心持が表われているつもりです。この能楽に取材して、それを普通の人物に扱ったという点に、わたくしのある主張やら好みやらが含まれているわけです。

     ○

 わたくしはこの前の文展に、やはり能楽に関した“序《じょ》の舞《まい》”というのを出品いたしましたが、あまり能楽がつづきますので、どうかと思う鑑賞家もいられるかと思いますが、そこがわたくしの能楽道楽なところでこういうものなら幾らでも描いてみたい希望をもっています。

 一たい能楽というものは、全くの別天地です。殊にごみごみした現代などでは、劃然と飛びはなれた夢幻の境地であり、また現実の境地でもあります。騒音雑然、人事百端とも申すべき俗世界の世の中から、足一たびこの能楽の境域にはいりますと、そこには幽雅な楽器が、わたくしたちの耳塵《じじん》を払って鳴り響き、典麗高華な色彩や姿態が、鷹揚に微妙に動作いたします。それを見聴きしていますと、現《うつ》つ世には見も及ばず聴きもなれざる遠い昔の歴史の世界――全く恍惚《こうこつ》の境に引きいれられまして、わたくしどもは、それが夢であるのか、現《うつつ》であるのか別《わか》ちのつかない場面に魂を彷彿とさせます。

 沈麗《ちんれい》高古な衣裳のうごき、ゆるやかな線の姿態の動き、こんな世界が、ほんとうに昔のある場面を彩どったであろうように、静寂な感覚の上に顕現してまいります。この微妙な感覚は、口舌で説きえるほど浅いものではありません。

     ○

 面《おもて》は喜怒哀楽を越えた無表情なものですが、それがもし名匠の手に成ったものであり、それを着けている人が名人であったら、面は立派に喜怒哀楽の情を表わします。わたくしは曽て金剛巌師の“草紙洗”を見まして、ふかくその至妙の芸術に感動いたしたものですから、こんど、それを描いてみたのでした。

 小町の“草紙洗”というのは、ご存じのとおり、宮中の歌合せに、大伴黒主《おおとものくろぬし》が、とうてい小町には敵わないと思ったものですから、腹黒の黒主が、小町の歌が万葉集のを剽窃《ひょうせつ》したものだと称して、かねて歌集の中へ小町の歌を書きこんでおき、証拠はこの通りといったので、無実のぬれ衣を被《き》た小町は、その歌集を洗って、新たに書きこんだ歌を洗いおとし黒主の奸計をあばくという筋なのです。

 この作品はぎりぎりの十月十二日に送り出して辛々《からから》間《ま》に合わせたのでしたが、随分|根《こん》をつめました。

 松篁は羊の絵を制作中でしたが、夜更になって、そっと松篁の画室の方をのぞいて見ますと電燈がついている、さてはまだ描いているなと思いまして、わたくしも負けずにまた筆を執るという工合で、母子競争で制作に励んだわけでした。

 松篁もなかなか熱心でしたが、さて出来栄えはどんなものですか――




底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
   1976(昭和51)年11月10日初版発行
   1977(昭和52)年5月31日第2刷
初出:「大毎美術 第十六巻第十一号」
   1937(昭和12)年11月
入力:川山隆
校正:鈴木厚司
2008年10月15日作成
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終わり
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