けせずにお暮しなさったのでございます。
「わしという万年白歯を餌にして、この百万の身代ができたのじゃぞえ」
 富本でこなれた渋い声で御生前よくこう言い言いして居られましたから、いずれこれには面白い因縁でもあるのでございましょう。どんな因縁なのだろうなどと野暮なお探りはお止《よ》しなさいませ。婆様がお泣きなさるでございましょう。と申しますのは、私の婆様は、それはそれは粋《いき》なお方で、ついに一度も縮緬《ちりめん》の縫紋の御羽織をお離しになったことがございませんでした。御師匠をお部屋へお呼びなされて富本のお稽古《けいこ》をお始めになられたのも、よほど昔からのことでございましたでしょう。私なぞも物心地が附いてからは、日がな一日、婆様の老松《おいまつ》やら浅間《あさま》やらの咽《むせ》び泣くような哀調のなかにうっとりしているときがままございました程で、世間様から隠居芸者とはやされ、婆様御自身もそれをお耳にしては美しくお笑いになって居られたようでございました。いかなることか、私は幼いときからこの婆様が大好きで、乳母から離れるとすぐ婆様の御懐に飛び込んでしまったのでございます。もっとも私の母様は
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