その職は史料編纂官、その生まれ在所は勾当と同じ備後の人でさえ、故勾当の人物に就いては、そんなに深く知っていたわけでは無かったという事がわかるのである。また、東京盲学校長、町田則文というお人も、序文を寄せて居られるが、それには、「一日葛原※[#「凵<茲」、356−14]君、余が学校を訪われ君が祖父故葛原勾当自記の四十余年間に亘れる仮名文字活字日誌を示され、且《かつ》、其生存中に於ける事業の大要及び勾当の趣味等につき、詳に語らる。余|之《これ》を聴き所感|殊《こと》に深く、俄然として我が帝国盲教育上に一大辰を仰ぎ得たるの想を為せり。云々。」とあって、いたく驚いている様子が、わかるのである。このように、故勾当の名も、その日記も、大正四年、正孫の葛原※[#「凵<茲」、357−1]氏が、その祖父君の遺業を、写真数葉、勾当年譜、逸話集等と共にまとめて見事な一本と為し、「葛原勾当日記」と銘題打って、ひろく世に誇示なされる迄は、わずかに琴の上手として一地方にのみ知られていただけのものでは無かったかと思う。それが、今では、人名辞典を開けば、すなわち「葛原勾当」の項が、ちゃんと出ているのであるから、故勾当も、よいお孫を得られて、地下で幽《かす》かに緩頬《かんきょう》なされているかも知れない。
葛原勾当。徳川中期より末期の人。箏曲家他。文化九年、備後国深安郡八尋村に生まれた。名は、重美。前名、矢田柳三。孩児《がいじ》の頃より既に音律を好み、三歳、痘を病んで全く失明するに及び、いよいよ琴に対する盲執を深め、九歳に至りて隣村の瞽女《ごぜ》お菊にねだって正式の琴三味線の修練を開始し、十一歳、早くも近隣に師と為すべき者無きに至った。すぐに京都に上り、生田流、松野|検校《けんぎょう》の門に入る。十五歳、業成り、勾当の位階を許され、久我管長より葛原の姓を賜う。時、文政九年也。その年帰郷し、以後五十余年間、三備地方を巡遊、箏曲の教授をなす。傍《かたわ》ら作曲し、その研究と普及に一生涯を捧げた。座頭の位階を返却す。検校の位階を固辞す。金銭だに納付せば位階は容易に得べき当時の風習をきたなきものに思い、位階は金銭を以て購《あがな》うべきものにあらずとて、死ぬるまで一勾当の身上にて足れりとした。天保十一年、竹琴を発明し、のち京に上りて、その製造を琴屋に命じたところが、琴屋のあるじの曰《いわ》く、奇しき事もあ
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