士には目もくれず、それこそ血の滴《したた》るやうな真赤な山の紅葉を、凝視してゐた。茶店のまへの落葉を掃きあつめてゐる茶店のおかみさんに、声をかけた。
「をばさん! あしたは、天気がいいね。」
自分でも、びつくりするほど、うはずつて、歓声にも似た声であつた。をばさんは箒《はうき》の手をやすめ、顔をあげて、不審げに眉をひそめ、
「あした、何かおありなさるの?」
さう聞かれて、私は窮した。
「なにもない。」
おかみさんは笑ひ出した。
「おさびしいのでせう。山へでもおのぼりになつたら?」
「山は、のぼつても、すぐまた降りなければいけないのだから、つまらない。どの山へのぼつても、おなじ富士山が見えるだけで、それを思ふと、気が重くなります。」
私の言葉が変だつたのだらう。をばさんはただ曖昧《あいまい》にうなづいただけで、また枯葉を掃いた。
ねるまへに、部屋のカーテンをそつとあけて硝子窓越しに富士を見る。月の在る夜は富士が青白く、水の精みたいな姿で立つてゐる。私は溜息をつく。ああ、富士が見える。星が大きい。あしたは、お天気だな、とそれだけが、幽《かす》かに生きてゐる喜びで、さうしてまた、そ
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