のである。
 けれども、野暮《やぼ》な私には、お茶の席などそんな風流の場所に出た経験は生れてから未だいちども無い。黄村先生は、そのような不粋《ぶすい》な私をお茶に招待して、私のぶざまな一挙手一投足をここぞとばかり嘲笑し、かつは叱咤《しった》し、かつは教訓する所存なのかも知れない。油断がならぬ。私は先生のお手紙を拝誦して、すぐさま外出し、近所の或る優雅な友人の宅を訪れた。
「君のとこに、何かお茶の事を書いた本が無いかね。」私は時々この上品な友人から、その蔵書を貸してもらっているのである。
「こんどはお茶の本か。多分、あるだろうと思うけど、君もいろんなものを読むんだね。お茶とは、また。」友人はいぶかしげの顔をした。
「茶道読本」とか「茶の湯客の心得」とか、そんな本を四冊も借りて私は家へ帰り、片端から読破した。茶道と日本精神、侘《わび》の心境、茶道の起原、発達の歴史、珠光、紹鴎、利休の茶道。なかなか茶道も、たいへんなものだ。茶室、茶庭、茶器、掛物、懐石の料理|献立《こんだて》、読むにしたがって私にも興が湧いて来た。茶会というものは、ただ神妙にお茶を一服御馳走になるだけのものかと思っていたら、
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