はやめ給え。それは駅前の金物屋から四、五年前に二円で買って来たものだ。そんなものを褒《ほ》める奴があるか。」
 どうも勝手が違う。けれども私は、あくまでも「茶道読本」で教えられた正しい作法を守ろうと思った。
 釜の拝見の次には床の間の拝見である。私たちは六畳間の床の間の前に集って掛軸を眺めた。相変らずの佐藤一斎先生の書である。黄村先生には、この掛軸一本しか無いようである。私は掛軸の文句を低く音読した。
 寒暑栄枯天地之呼吸也。苦楽|寵辱《ちょうじょく》人生之呼吸也。達者ニ在ッテハ何ゾ必ズシモ其|遽《にわ》カニ至ルヲ驚カン哉《や》。
 これは先日、先生から読み方を教えられたばかりなので、私には何の苦も無く読めるのである。
「流石《さすが》にいい句ですね。」私はまた下手《へた》なお追従《ついしょう》を言った。「筆蹟にも気品があります。」
「何を言っているんだ。君はこないだ、贋物《にせもの》じゃないかなんて言って、けちを附けてたじゃないか。」
「そうでしたかね。」私は赤面した。
「お茶を飲みに来たんだろう?」
「そうです。」
 私たちは部屋の隅にしりぞいて、かしこまった。
「それじゃ、はじめよう。」先生は立ち上って隣りの三畳間へ行き、襖《ふすま》をぴたりとしめてしまった。
「これからどうなるんです。」瀬尾君は小声で私に尋ねた。
「僕にも、よくわからないんですがね、」何しろ、まるで勝手が違ってしまったので私は不安でならなかった。「普通の茶会だったら、これから炭手前の拝見とか、香合一覧の事などがあって、それから、御馳走が出て、酒が出て、それから、――」
「酒も出るのですか。」松野君は、うれしそうな顔をした。
「いや、それは時節柄、省略するだろうと思うけど、いまに薄茶が出るでしょう。まあ、これから一つ、先生の薄茶のお手前を拝見するという事になるんじゃないでしょうか。」私にもあまり自信が無い。
 じゃぼじゃぼという奇怪な音が隣室から聞えた。茶筌《ちゃせん》でお茶を掻《か》き廻しているような音でもあるが、どうも、それにしてはひどく乱暴な騒々しい音である。私は聞き耳を立て、
「おや、もうお手前がはじまったのかしら。お手前は必ず拝見しなければならぬ事になっているのだけど。」
 気が気でなかった。襖はぴったりしめ切られている。先生は一体、どんな事をやらかして居られるのか、じゃぼじゃぼとい
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