でみたいな。ね、街へ出てみましょう。」
「そこの茶店には、ビールもあるんだ。」私は、街へ出たくなかった。着物の事もあるし、それに、きょう書き結んだ小説が甚だ不出来で、いらいらしていたのである。
「茶店は、よしましょう。寒くていけません。どこかで落ちついて飲んでみたいんです。」友人の身の上にも、最近、不愉快な事ばかり起っているのを私は聞いて知っていた。
「じゃ、阿佐ヶ谷へ行ってみようかね。新宿は、どうも。」
「いいところが、ありますか。」
べつにいいところでも無いけれど、そこだったら、まえにもしばしば行っているのだから、私がこんな異様な風態《ふうてい》をしていても怪しまれる事は無いであろうし、少しはお勘定を足りなくしても、この次、という便利もあるし、それに女給もいない酒だけの店なのだから、身なりの顧慮も要らないだろうと思ったのである。
薄暮、阿佐ヶ谷駅に降りて、その友人と一緒に阿佐ヶ谷の街を歩き、私は、たまらない気持であった。寒山拾得《かんざんじっとく》の類の、私の姿が、商店の飾窓の硝子《ガラス》に写る。私の着物は、真赤に見えた。米寿《べいじゅ》の祝いに赤い胴着を着せられた老翁の姿を思い出した。今の此のむずかしい世の中に、何一つ積極的なお手伝いも出来ず、文名さえも一向に挙らず、十年一日の如く、ちびた下駄をはいて、阿佐ヶ谷を徘徊《はいかい》している。きょうはまた、念入りに、赤い着物などを召している。私は永遠に敗者なのかも知れない。
「いくつになっても、同じだね。自分では、ずいぶん努力しているつもりなのだけれど。」歩きながら、思わず愚痴が出た。「文学って、こんなものかしら。どうも僕は、いけないようだね。こんな、なりをして歩いて。」
「服装は、やはり、ちゃんとしていなければ、いけないものなのでしょうね。」友人は私を慰め顔に、「僕なんかでも、会社で、ずいぶん損をしますよ。」
友人は、深川の或る会社に勤めているのだが、やはり服装にはお金をかけたがらない性質のようである。
「いや、服装だけじゃないんだ。もっと、根本の精神だよ。悪い教育を受けて来たんだ。でも、やっぱり、ヴェルレエヌは、いいからね。」ヴェルレエヌと赤い着物とは、一体どんなつながりがあるのか、われながら甚だ唐突で、ひどくてれくさかったけれど、私は自分に零落を感じ、敗者を意識する時、必ずヴェルレエヌの泣きべその顔を思い出し、救われるのが常である。生きて行こうと思うのである。あの人の弱さが、かえって私に生きて行こうという希望を与える。気弱い内省の窮極からでなければ、真に崇厳な光明は発し得ないと私は頑固に信じている。とにかく私は、もっと生きてみたい。謂わば、最高の誇りと最低の生活で、とにかく生きてみたい。
「ヴェルレエヌは、大袈裟だったかな? どうも、この着物では何を言ったって救われないよ。」やり切れない気持であった。
「いや、大丈夫です。」友人は、ただ軽く笑っている。街に電燈がついた。
その夜、私は酒の店で、とんだ失敗をした。その佳い友人を殴ってしまったのである。罪は、たしかに着物にあった。私は、このごろは何事にも怺《こら》えて笑っている修業をしているのであるからいささかの乱暴も、絶無であったのであるが、その夜は、やってしまった。すべては、この赤い着物のせいであると、私は信じている。衣服が人心に及ぼす影響は恐ろしい。私は、その夜は、非常に卑屈な気持で酒を飲んでいた。鬱々として、楽しまなかった。店の主人にまで、いやしい遠慮をして、片隅のほの暗い場所に坐って酒を飲んでいたのである。ところが、友人のほうは、その夜はどうした事か、ひどく元気で、古今東西の芸術家を片端から罵倒し、勢いあまって店の主人にまで食ってかかった。私は、この主人のおそろしさを知っている。いつか、この店で、見知らぬ青年が、やはりこの友人のように酒に乱れ、他の客に食ってかかった時に、ここの主人は、急に人が変ったような厳粛な顔になり、いまはどんな時であるか、あなたは知らぬか、出て行ってもらいましょう、二度とおいでにならぬように、と宣告したのである。私は主人を、こわい人だと思った。いま、この友人が、こんなに乱れて主人に食ってかかっているが、今にきっと私たち二人、追放の恥辱を嘗《な》めるようになるだろうと、私は、はらはらしていた。いつもの私なら、そんな追放の恥辱など、さらに意に介せず、この友人と共に気焔を挙げるにきまっているのであるが、その夜は、私は自分の奇妙な衣服のために、いじけ切っていたので、ひたすら主人の顔色を伺い、これ、これ、と小声で友人を、たしなめてばかりいたのである。けれども友人の舌鋒《ぜっぽう》は、いよいよ鋭く、周囲の情勢は、ついに追放令の一歩手前まで来ていたのである。この時にあたり、私は窮余の一策として、か
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