ゃれの迷いの夢から醒めてみると、これは、どうしたって、男子の着るものではなかった。あきらかに婦人のものである。あの一時期は、たしかに、私は、のぼせていたのにちがいない。何の意味も無く、こんな派手ともなんとも形容の出来ない着物を着て、からだを、くにゃくにゃさせて歩いていたのかと思えば、私は顔を覆って呻吟《しんぎん》するばかりである。とても着られるものでない。見るのさえ、いやである。私は、これを、あの倉庫に永いこと預け放しにして置いたのである。ところが昨年の秋、私は、その倉庫の中の衣服やら毛布やら書籍やらを少し整理して、不要のものは売り払い、入用と思われるものだけを持ち帰った。家へ持ち帰って、その大風呂敷包を家内の前で、ほどく時には、私も流石《さすが》に平静でなかった。いくらか赤面していたのである。結婚以前の私のだらし無さが、いま眼前に、如実に展開せられるわけだ。汚れた浴衣は、汚れたままで倉庫にぶち込んでいたのだし、尻の破れた丹前も、そのまま丸めて倉庫に持参していたのだし、満足な品物は一つとして無いのだ。よごれて、かび臭く、それに奇態に派手な模様のものばかりで、とても、まともな人間の遺品とは思われないしろものばかりである。私は風呂敷包を、ほどきながら、さかんに自嘲した。
「デカダンだよ。屑屋《くずや》に売ってしまっても、いいんだけどもね。」
「もったいない。」家内は一枚一枚きたながらずに調べて、「これなどは、純毛ですよ。仕立直しましょう。」
 見ると、それは、あのセルである。私は戸外に飛び出したい程に狼狽した。たしかに倉庫に置いて来た筈なのに、どうして、そのセルが風呂敷包の中にはいっていたのか、私にはいまもって判らない。どこかに手違いがあったのだ。失敗である。
「それは、うんと若い時に着たのだよ。派手なようだね。」私は内心の狼狽をかくして、何気なさそうな口調で言った。
「着られますよ。セルが一枚も無いのですもの。ちょうどよかったわ。」
 とても着られるものではない。十年間、倉庫に寝かせたままで置いているうちに、布地が奇怪に変色している。謂わば、羊羹色《ようかんいろ》である。薄赤い縦横の縞は、不潔な渋柿色を呈して老婆の着物のようである。私は今更ながら、その着物の奇怪さに呆《あき》れて顔をそむけた。
 ことしの秋、私は必ずその日のうちに書き結ばなければならぬ仕事があって、朝早く飛び起き、見ると枕元に、見馴れぬ着物が、きちんと畳まれて置かれてある。れいのセルである。そろそろ秋冷の季節である。洗って縫い直したものらしく、いくぶん小綺麗にはなっていたが、その布地の羊羹色と、縞の渋柿色とは、やはりまぎれもない。けれどもその朝は、仕事が気になって、衣服の事などめんどうくさく、何も言わずにさっさと着て朝ごはんも食べずに仕事をはじめた。昼すこし過ぎにやっと書き終えて、ほっとしていたところへ、実に久しぶりの友人が、ひょっこり訪ねて来た。ちょうどいいところであった。私は、その友人と一緒に、ごはんを食べ、よもやまの話をして、それから散歩に出たのである。家の近くの、井《い》の頭《かしら》公園の森にはいった時、私は、やっと自分の大変な姿に気が附いた。
「ああ、いけない。」と思わず呻《うめ》いた。「こりゃ、いけない。」立ちどまってしまった。
「どうしたのです。お腹《なか》でも――、」友人は心配そうに眉をひそめて、私の顔を見詰めた。
「いや、そうじゃないんだ。」私は苦笑して、「この着物は、へんじゃないかね。」
「そうですね。」友人は真面目に、「すこし派手なようですね。」
「十年前に買ったものなんだ。」また歩き出して、「女ものらしいんだ。それに、色が変っちゃったものだから、なおさら、――」歩く元気も無くなった。
「大丈夫ですよ。そんなに目立ちません。」
「そうかね。」やや元気が出て来て、森を通り抜け、石段を降り、池のほとりを歩いた。
 どうにも気になる。私も今は三十二歳で、こんなに鬚《ひげ》もじゃの大男になって、多少は苦労して来たような気もしているのであるが、やはり、こんな悪洒落みたいな、ふざけた着物を着て、ちびた下駄をはき、用も無いのに公園をのそのそ歩き廻っている。知らない人は、私をその辺の不潔な与太者と見るだろう。また私を知っている人でも、あいつ相変らずでいやがる、よせばいいのに、といよいよ軽蔑するだろう。私はこれまで永い間、変人の誤解を受けて来たのだ。
「どうです。新宿の辺まで出てみませんか。」友人は誘った。
「冗談じゃない。」私は首を横に振った。「こんな恰好で新宿を歩いて、誰かに見られたら、いよいよ評判が悪くなるばかりだ。」
「そんな事もないでしょう。」
「いや、ごめんだ。」私は頑として応じなかった。「その辺の茶店で休もうじゃないか。」
「僕は、お酒を飲ん
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