なしめんとするなり。」と思いきり口汚い無智な不平ばかりを並べられて、モーゼの心の中は、どんなであったでしょう。荒野に於ける四十年の物語は、このような奴隷の不平の声で充満しています。モーゼは、けれども決して絶望しなかったのです。鉄石の義心は、びくともせず、之《これ》を叱咤し統御し、ついに約束の自由の土地まで引き連れて来ました。モーゼは、ピスガの丘の頂きに登って、ヨルダン河の流域を指差し、あれこそは君等の美しい故郷だ、と教えて、そのまま疲労のために死にました。四十年間、私は奴隷の一日として絶える事の無かった不平の声と、謀叛《むほん》、無智、それに対するモーゼの惨澹《さんたん》たる苦心を書いて居ります。是非とも終りまで書いてみたいのです。なぜ書いてみたいのか、私には説明がうまく出来ませんが、本当に、むきになって、これだけヘ書いて置きたい気がしています。いつか温泉の宿から、「五十円」という小説を書きます等と、ふざけた事を申し上げましたが、恥ずかしい気が致します。いつまでも、あんなテエマで甘えていたら、私は、それこそ奴隷の中の一人になります。肉鍋の傍に大あぐらをかいて、「奴隷の平和」をほくほく享
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