気持に不自然を感じなくなりました。もう私の気持が、浪の引くように、あなたから遠くはなれてしまっているのかも知れません。旅行から帰って、少しずつ仕事をすすめているうちに、私はあなたに対して二十年間持ちつづけて来た熱狂的な不快な程のあこがれが綺麗さっぱりと洗われてしまっているのに気が附きました。胸の中が、空《から》のガラス瓶のように涼しいのです。あなたの作品を、もちろん昔と変らず、貴いものと思って居ります。けれども、その貴さは、はるか遠くで幽《かす》かに、この世のものでないように美しく輝いている星のようです。私から離れてしまいました。私は、これから、こだわらずに、あなたを先生と呼ぶ事が出来そうです。あなたは大事なおかたです。尊敬とは、こんな侘《わ》びしい感情を指して言うのでしょうか。私は、あなたに甘える事が、どうしても出来なくなりました。あなたは、生れながらの「作家」でした。私には、野暮《やぼ》な俗人というしっぽが、いつまでもくっついていて、「作家」という一天使に浄化する事がどうしても出来ません。
私のいまの仕事は、旧約聖書の「出エジプト記」の一部分を百枚くらいの小説に仕上げる事なのです
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