、それでも、叱ったり、なだめたり、怒鳴ったりして、やっとの事で皆を引き連れ、エジプト脱出に成功したが、それから四十年間荒野にさまよい、脱出してモーゼについて来た百万の同胞は、モーゼに感謝するどころか、一人残らずぶつぶつ言い出してモーゼを呪《のろ》い、あいつが要らないおせっかいをするから、こんな事になったのだ、脱出したって少しもいい事がないじゃないか、ああ、思えばエジプトにいた頃はよかったね、奴隷だって何だって、かまわないじゃないか、パンもたらふく食べられたし、肉鍋には鴨《かも》と葱《ねぎ》がぐつぐつ煮えているんだ、こたえられねえや、それにお酒は昼から飲み放題と来らあ、銭湯は朝からあったし、ふんどしだって純綿だったぜ。「我儕《われら》エジプトの地に於いて、肉の鍋の側に坐り、飽《あく》までにパンを食《くら》いし時に、エホバの手によりて、死にたらばよかりしものを、」(十六章三)あの頃、死んだ奴は仕合せさ、モーゼの山師めにだまされて、エジプトから出たばっかりに、ひでえめに逢っちゃった、ちっともいい事ねえじゃねえか。「汝《なんじ》はこの曠野《あらの》に我等を導きいだして、この全会を飢《うえ》に死なしめんとするなり。」と思いきり口汚い無智な不平ばかりを並べられて、モーゼの心の中は、どんなであったでしょう。荒野に於ける四十年の物語は、このような奴隷の不平の声で充満しています。モーゼは、けれども決して絶望しなかったのです。鉄石の義心は、びくともせず、之《これ》を叱咤し統御し、ついに約束の自由の土地まで引き連れて来ました。モーゼは、ピスガの丘の頂きに登って、ヨルダン河の流域を指差し、あれこそは君等の美しい故郷だ、と教えて、そのまま疲労のために死にました。四十年間、私は奴隷の一日として絶える事の無かった不平の声と、謀叛《むほん》、無智、それに対するモーゼの惨澹《さんたん》たる苦心を書いて居ります。是非とも終りまで書いてみたいのです。なぜ書いてみたいのか、私には説明がうまく出来ませんが、本当に、むきになって、これだけヘ書いて置きたい気がしています。いつか温泉の宿から、「五十円」という小説を書きます等と、ふざけた事を申し上げましたが、恥ずかしい気が致します。いつまでも、あんなテエマで甘えていたら、私は、それこそ奴隷の中の一人になります。肉鍋の傍に大あぐらをかいて、「奴隷の平和」をほくほく享楽しているのも、まんざら悪くない気持で、貧乏人の私には、わかり過ぎる程わかっているのですが、でもモーゼの義心と焦慮を思うと、なまけものの私でも重い尻を上げざるを得なくなります。
少し興奮しすぎたようです。きょうは朝から近頃に無く気持がせいせいしていて慾も得《とく》も無く、誰をも怨《うら》まず、誰をも愛さず、それこそ心頭滅却に似た恬淡《てんたん》の心境だったのですが、あなたに話かけているうちに、また心の端が麻《あさ》のように乱れはじめて、あなたの澄んだ眼と、強い音声が、ともすると私の此の手紙の文章を打ち消してしまいそうなので、私は片手で、あなたの眼と言葉を必死に払いのけながら、こちらも負けじと一字一字ちからをこめて書いて、いつのまにやら、たいへん興奮して書いていました。
私のいまの小説は、決して今のこの時代の人たちへの教訓として書いているのではありません。とんでも無い事です。人に教えたり、人に号令したりする資格は、私には全然ありません。いや、能力が無いのです。私はいつでも自分の触覚した感動だけを書いているのです。私は単純な、感激|居士《こじ》なのかも知れません。たとい、どんな小さな感動でも、それを見つけると私は小説を書きたくなったものですが、このごろ私の身辺にちっとも感動が無くなって完全に一字も書けなくなっていたところを聖書が救ってくれました。私には何も、わかりません。世の中の見透しなども出来ません。私は貧しい庶民です。けれども自分ひとりの感動の有無だけは、いつでも正直に表現していたいと思っています。私は、エホバを畏れています。
どうも私は、立派そうな事を言うのが、てれくさくていけません。モーゼほどの鉄石の義心と、四十年の責任感とを持っているのならとにかく、私の心の高揚は、その日のお天気工合等に依って大いに支配されているような有様ですから、少しもあてになりません。大声で宣言しかけては狼狽しています。七月の末から雨がつづいて、インク瓶にまで黴《かび》が生えて薄気味わるい程でしたが、やっと久し振りでいいお天気になりました。けれども風が涼しく、そろそろ秋が忍び寄って来ているのがわかりますね。きょうはこれから庭の畑の手入れをしようと思っています。トーモロコシが昨夜の豪雨で、みんな倒れてしまいました。
雨が永くつづいたせいか、脚がまた少しむくんで来たようで、このごろは酒
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