どんなにじたばたしたって、決して熊にはなれません。私は、あきらめました。二日あなたのお傍で遊ばせていただき、あなたに、あまり宿賃のお世話になるのも心苦しい事でしたので、私だけ先に、失礼して帰京いたしましたが、あなたは、あれから、信州のほうへお廻りになるとか、おっしゃって居られましたけれど、もうそろそろ涼しくなってまいりましたから、御帰京なさって居られる頃と存じます。
夢のような気が致します。二十年間、一日もあなたの事を忘れず、あなたの文章は一つも余さず読んで、いつもあなた一人を目標にして努力してまいりましたが、一夜の興奮から、とうとう手紙を差し上げ、それからはまるで逆上したように遮二無二あなたに飛び附いて、叱られ、たたかれても、きゃんきゃん言ってまつわり附いて、とうとうあなたと温泉宿で一緒に遊ぶという程の意外な幸福を得たという事は、いま思うと悲しい夢のような気がするのです。私は狂っていたのかも知れません。ずいぶん失礼な手紙も差し上げたような気がします。私のそんな半狂乱の手紙にも、いちいち長い御返事を下さった先生の愛情と誠実を思うと、目が熱くなります。だんだん先生とお呼びしても、自分の気持に不自然を感じなくなりました。もう私の気持が、浪の引くように、あなたから遠くはなれてしまっているのかも知れません。旅行から帰って、少しずつ仕事をすすめているうちに、私はあなたに対して二十年間持ちつづけて来た熱狂的な不快な程のあこがれが綺麗さっぱりと洗われてしまっているのに気が附きました。胸の中が、空《から》のガラス瓶のように涼しいのです。あなたの作品を、もちろん昔と変らず、貴いものと思って居ります。けれども、その貴さは、はるか遠くで幽《かす》かに、この世のものでないように美しく輝いている星のようです。私から離れてしまいました。私は、これから、こだわらずに、あなたを先生と呼ぶ事が出来そうです。あなたは大事なおかたです。尊敬とは、こんな侘《わ》びしい感情を指して言うのでしょうか。私は、あなたに甘える事が、どうしても出来なくなりました。あなたは、生れながらの「作家」でした。私には、野暮《やぼ》な俗人というしっぽが、いつまでもくっついていて、「作家」という一天使に浄化する事がどうしても出来ません。
私のいまの仕事は、旧約聖書の「出エジプト記」の一部分を百枚くらいの小説に仕上げる事なのです。私にとっては、はじめての「私小説」で無い小説ですが、けれども、やっぱり他人の事は書けません。自分の周囲の事を書いているのです。いままでの小説の形式に行きづまって、うんざりして、やっとこんな冒険の新形式を試みる事になったのですが、どうやら、きょうで物語の三分の二まで漕《こ》ぎつけて調子も出て来たようですから、少し、ほっとしているのです。ちらと青空も見えて来ました。ぎりぎりに行きづまって、くるしまなければ、いつまで経っても青空を見る事が出来ないのだ、いまは、かえって、きのう迄の行きづまりに感謝だ、などと甘い感慨にふけっている形なのです。私は無学で、本当に何一つ知らないのですが、でも、聖書だけは、新聞配達をしている頃から、くるしい時には開いて読んで居りました。一時、わすれていたのですが、こんど、あなたから、「エホバを畏《おそ》るるは知識の本なり。」という箴言《しんげん》を教えていただいて愕然《がくぜん》としたのでした。ずいぶん久しい間、聖書をわすれていたような気がして、たいへんうろたえて、旅行中も、ただ聖書ばかりを読んでいました。自分の醜態を意識してつらい時には、聖書の他には、どんな書物も読めなくなりますね。そうして聖書の小さい活字の一つ一つだけが、それこそ宝石のようにきらきら光って来るから不思議です。あの温泉宿で、ただ、うろうろして一枚の作品も書けず、ひどく無駄をしたような気持でしたが、でも、いまになって考えると聖書を毎日読んだという事だけでも、たいへん貴重な旅行であったのかも知れません。聖書を思い出させて下さったのも、また、私に旅行をすすめて下さったのも、すべてあなたであります。やはり私は、あなたに苦しさを訴えてよかったのかも知れません。私は、あなたに救われたのです。いよいよ私は、あなたに甘える事が出来ません。真の尊敬というものは、お互いの近親感を消滅させて、遠い距離を置いて淋《さび》しく眺め合う事なのでしょうか。私は今は、生れてはじめて孤独です。
「出エジプト記」を読むと、モーゼの努力の程が思いやられて、胸が一ぱいになります。神聖な民族でありながらもその誇りを忘れて、エジプトの都会の奴隷の境涯に甘んじ貧民窟で喧噪《けんそう》と怠惰の日々を送っている百万の同胞に、エジプト脱出の大事業を、「口重く舌重き」ひどい訥弁《とつべん》で懸命に説いて廻ってかえって皆に迷惑がられ
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