るな! 寄るな!」とわめいて両手を胸に当て、ひとりで身悶えするのですが、なんとも、まずい形でした。私は酔いも醒《さ》め、すっかりまじめな気持になってしまって、「誰も君に寄りやしないじゃないか。坐り給え。僕が悪かったよ。銃後の女性は皆、君のようにしっかりしていなければいけないね。」などと言ってほめてやりましたが、女中は、いかにも私を軽蔑し果てたというように、フンと言って、襟《えり》を掻き合せ、澄まして部屋から出て行きました。私は残ったお酒をぐいぐい呑み、ひとりでごはんをよそって食べましたが、実にばからしい気持でした。藤十郎が、こんなひどい目に遇うとは、思いも設けなかった事でした。とかく、むかしの伝説どおりには行かないものです。「何しるでえ!」には、おどろきました。インスピレエションも何もあったものではありません。これでは藤十郎のほうで、くやしく恥ずかしくて形がつかず、首をくくらなければなりません。その夜、お膳《ぜん》を下げに来たのも、蒲団《ふとん》を伸べに来たのも、あの外八文字ではありませんでした。痩せて皮膚のきたない、狐《きつね》のような顔をした四十くらいの女中でした。この女中までが私を変に警戒しているようなふうなので、私は、うんざりしました。あの外八文字が、みんなに吹聴《ふいちょう》したのに違いありません。その夜は私も痛憤して、なかなか眠られぬくらいでしたが、でも、翌《あく》る朝になったら恥ずかしさも薄らいで、部屋を掃除しに来た外八文字に、ゆうべは失敬、と笑いながら軽く言う事が出来ました。やっぱり男は四十ちかくになると、羞恥心が多少|麻痺《まひ》して図々しくなっているものですね。十年前だったら、私はゆうべもう半狂乱で脱走してしまっていたでしょう。自殺したかも知れません。外八文字は、私がお詫びを言ったら、不機嫌そうに眉をひそめてちょっと首肯きました。たいへん、もったいぶっています。私は、もう此の女とは一言も口をきくまいと思いました。実に、くだらない。きのうは一日一ぱい、寝ころんで聖書を読んでいました。夜も、お酒は呑みませんでした。ひとりで渓流の傍の岩風呂にからだを沈めて、心まずしきものは幸いなるかな、心まずしきものは幸いなるかな、となんども呟《つぶや》いてみましたが、そのうちに大きい声で、いい仕事をしろ、馬鹿野郎、いい仕事をしろ、馬鹿野郎と言うようになりました。それ
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