でしょうか。思想の訓練と言葉の訓練とぴったり並走させて勉強して来たのではないでしょうか。口下手の、あるいは悪文の、どもる奴には、思想が無いという事になっていたのではないでしょうか。だからあなた達は、なんでもはっきり言い切って、そうして少しも言い残して居りません。子供っぽい、わかり切った事でも、得意になって言っています。それがまた、私たちにとっては非常な魅力なのですから、困ります。私たちは、何と言ってよいのか、「思想を感覚する」とでも言ったらいいのだろうか、思惟が言葉を置きざりにして走ります。そうして言葉は、いつでも戸惑いをして居ります。わかっているのです。言葉が、うるさくってたまりません。なるほど、それも一理窟だ、というような、そんないい加減な気持で、人の講義を聞いて居ります。言葉は、感覚から千里もおくれているような気がして、のろくさくって、たまりません。主観を言葉で整理して、独自の思想体系として樹立するという事は、たいへん堂々としていて正統のようでもあり、私も、あこがれた事がありましたが、どうも私は「哲学」という言葉が閉口で、すぐに眼鏡をかけた女子大学生の姿や、されこうべなどが眼に浮び、やり切れないのです。私があなたのお手紙を読んで、あなたのお考えになっている事が、あなたの言葉と少しの間隙《かんげォ》も無くぴったりくっついて立っているのを見事に感じ、これは言葉に依る思想訓練の結果であろうか、或いはまた逆に、思想に依る言葉の訓練の成果であろうか、とにかく永い修練の末の不思議な力量を見たという思いを消す事が出来ませんでした。あなたが、あれは間違いだと思う、とお書きになると、あなたが心の底から一片の懐疑の雲もなく、それを間違いだと断定して居られるように感ぜられます。私たちは違います。あいつは厭な奴だと、たいへん好きな癖に、わざとそう言い変えているような場合が多いので、やり切れません。思惟と言葉との間に、小さい歯車が、三つも四つもあるのです。けれども、この歯車は微妙で正確な事も信じていて下さい。私たちの言葉は、ちょっと聞くとすべて出鱈目の放言のように聞えるでしょうが、しさいにお調べになったら、いつでもちゃんと歯車が連結されている筈です。生活の違いかも知れません。こんな言いわけは、気障《きざ》な事です。悲しくなりました。よしましょう。私が、あなたのお手紙の、ほとんど暴力に近
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