あの女流作家に対して失礼です。けれども私は今、出鱈目《でたらめ》を言わずには居られません。
 あなたから長いお手紙をいただき、ただ、こいつあいかんという気持で鞄《かばん》に、ペン、インク、原稿用紙、辞典、聖書などを詰め込んで、懐中には五十円、それでも二度ほど紙幣の枚数を調べてみて、ひとり首肯《うなず》き、あたふたと上野駅に駈け込んで、どもりながら、し、しぶかわと叫んで、切符を買い、汽車に乗り込んでから、なぜだか、にやりと笑いました。やっぱり、どこか、ふざけた書きかたですね。くるしまぎれのお道化です。御海容ねがいます。
 この、つまらない山の中の温泉場へ来てから、もう三日になりますが、一つとして得るところがありませんでした。奇妙な、ばからしい思いで、ただ、うろうろしています。なんにもならなかった。仕事は、一枚も出来ません。宿賃が心配で、原稿用紙の隅に、宿賃の計算ばかりくしゃくしゃ書き込んでは破り、ごろりと寝ころんだりしています。何しに、こんなところへ来たのだろう。実に、むだな事をしました。貧乏そだちの私にとっては、ほとんどはじめての温泉旅行だったのですが、どうも私はまだ、温泉でゆっくり仕事など出来る身分ではないようです。宿賃ばかりが気になっていけません。
 あなたの長いお手紙が、私をうろうろさせました。正直に申し上げると、あなたのお言葉の全部が、かならずしも私にとって頂門《ちょうもん》の一針《いっしん》というわけのものでも無かったし、また、あなたの大声|叱咤《しった》が私の全身を震撼《しんかん》させたというわけでも無かったのです。決して負け惜しみで言っているわけではありません。あなたが御手紙でおっしゃっている事は、すべて私も、以前から知悉《ちしつ》していました。あなたはそれを、私たちよりも懐疑が少く、権威を以《もっ》て大声で言い切っているだけでありました。もっともあなたのような表現の態度こそ貴重なものだということも私は忘れて居りません。あなたを、やはり立派だと思いました。あなたに限らず、あなたの時代の人たちに於いては、思惟《しい》とその表示とが、ほとんど間髪をいれず同時に展開するので、私たちは呆然とするばかりです。思った事と、それを言葉で表現する事との間に、些少《さしょう》の逡巡《しゅんじゅん》、駈引きの跡も見えないのです。あなた達は、言葉だけで思想して来たのではない
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