んな気持が思い当らぬこともない。いよいよこれは、僕の地下道行きは実現性の色を増して来たようだわい。」
 上野公園前の広場に出ました。さっきの四名の少年が冬の真昼の陽射《ひざし》を浴びて、それこそ嬉々として遊びたわむれていました。私は自然に、その少年たちの方にふらふら近寄ってしまいました。
「そのまま、そのまま。」
 ひとりの記者がカメラを私たちの方に向けて叫び、パチリと写真をうつしました。
「こんどは、笑って!」
 その記者が、レンズを覗《のぞ》きながら、またそう叫び、少年のひとりは、私の顔を見て、
「顔を見合せると、つい笑ってしまうものだなあ。」
 と言って笑い、私もつられて笑いました。
 天使が空を舞い、神の思召《おぼしめし》により、翼が消え失せ、落下傘《らっかさん》のように世界中の処々方々に舞い降りるのです。私は北国の雪の上に舞い降り、君は南国の蜜柑畑《みかんばたけ》に舞い降り、そうして、この少年たちは上野公園に舞い降りた、ただそれだけの違いなのだ、これからどんどん生長しても、少年たちよ、容貌《ようぼう》には必ず無関心に、煙草を吸わず、お酒もおまつり以外には飲まず、そうして、内気でちょっとおしゃれな娘さんに気永《きなが》に惚《ほ》れなさい。


 附記
 この時うつした写真を、あとで記者が持って来てくれた。笑い合っている写真と、それからもう一枚は、私が浮浪児たちの前にしゃがんで、ひとりの浮浪児の足をつかんでいる甚《はなは》だ妙なポーズの写真であった。もしこれが後日、何か雑誌にでも掲載された場合、太宰はキザな奴だ、キリスト気取りで、あのヨハネ伝の弟子《でし》の足を洗ってやる仕草を真似《まね》していやがる、げえっ、というような誤解を招くおそれなしとしないので一言弁明するが、私はただはだしで歩いている子供の足の裏がどんなになっているのだろうという好奇心だけであんな恰好《かっこう》をしただけだ。
 さらに一つ、笑い話を附け加えよう。その二枚の写真が届けられた時、私は女房を呼び、
「これが、上野の浮浪者だ。」
 と教えてやったら、女房は真面目《まじめ》に、
「はあ、これが浮浪者ですか。」
 と言い、つくづく写真を見ていたが、ふと私はその女房の見詰めている個所を見て驚き、
「お前は、何を感違いして見ているのだ。それは、おれだよ。お前の亭主じゃないか。浮浪者は、そっちの方だ。」
 女房は生真面目過ぎる程の性格の所有者で、冗談など言える女ではないのである。本気に私の姿を浮浪者のそれと見誤ったらしい。



底本:「太宰治全集9」ちくま文庫、筑摩書房
   1989(平成元)年5月30日第1刷発行
   1998(平成10)年6月15日第5刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月発行
入力:柴田卓治
校正:かとうかおり
2000年1月23日公開
2004年3月4日修正
青空文庫作成ファイル:
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