ってみると、中村武羅夫先生はまだ来ていなくて、林先生の橋田新一郎氏が土間のテーブルで、ひとりでコップ酒を飲みニヤニヤしていた。
「壮観でしたよ。眉山がミソを踏んづけちゃってね。」
「ミソ?」
 僕は、カウンターに片肘《かたひじ》をのせて立っているおかみさんの顔を見た。
 おかみさんは、いかにも不機嫌そうに眉をひそめ、それから仕方無さそうに笑い出し、
「話にも何もなりやしないんですよ、あの子のそそっかしさったら。外からバタバタ眼つきをかえて駈《か》け込んで来て、いきなり、ずぶりですからね。」
「踏んだのか。」
「ええ、きょう配給になったばかりのおミソをお重箱に山もりにして、私も置きどころが悪かったのでしょうけれど、わざわざそれに片足をつっ込まなくてもいいじゃありませんか。しかも、それをぐいと引き抜いて、爪先立《つまさきだ》ちになってそのまま便所ですからね。どんなに、こらえ切れなくなっていたって、何もそれほどあわて無くてもよろしいじゃございませんか。お便所にミソの足跡なんか、ついていたひには、お客さまが何と、……」
 と言いかけて、さらに大声で笑った。
「お便所にミソは、まずいね。」
 と僕は笑いをこらえながら、
「しかし、御不浄へ行く前でよかった。御不浄から出て来た足では、たまらない。何せ眉山の大海《たいかい》といってね、有名なものなんだからね、その足でやられたんじゃ、ミソも変じてクソになるのは確かだ。」
「何だか、知りませんがね、とにかくあのおミソは使い物になりやしませんから、いまトシちゃんに捨てさせました。」
「全部か? そこが大事なところだ。時々、朝ここで、おみおつけのごちそうになる事があるからな。後学のために、おたずねする。」
「全部ですよ。そんなにお疑いなら、もう、うちではお客さまに、おみおつけは、お出し致しません。」
「そう願いたいね。トシちゃんは?」
「井戸端《いどばた》で足を洗っています。」
 と橋田氏は引き取り、
「とにかく壮烈なものでしたよ。私は見ていたんです。ミソ踏み眉山。吉右衛門《きちえもん》の当り芸になりそうです。」
「いや、芝居にはなりますまい。おミソの小道具がめんどうです。」
 橋田氏は、その日、用事があるとかで、すぐに帰り、僕は二階にあがって、中村先生を待っていた。
 ミソ踏み眉山は、お銚子を持ってドスンドスンとやって来た。
「君は、どこか、からだが悪いんじゃないか? 傍に寄るなよ、けがれるわい。御不浄にばかり行ってるじゃないか。」
「まさか。」
 と、たのしそうに笑い、
「私ね、小さい時、トシちゃんはお便所へいちども行った事が無いような顔をしているって、言われたものだわ。」
「貴族なんだそうだからね。……しかし、僕のいつわらざる実感を言えば、君はいつでもたったいま御不浄から出て来ましたって顔をしているが、……」
「まあ、ひどい。」
 でも、やはり笑っている。
「いつか、羽織の裾《すそ》を背中に背負ったままの姿で、ここへお銚子を持って来た事があったけれども、あんなのは、一目瞭然《いちもくりょうぜん》、というのだ、文学のほうではね。どだい、あんな姿で、お酌《しゃく》するなんて、失敬だよ。」
「あんな事ばかり。」
 平然たるものである。
「おい、君、汚いじゃないか。客の前で、爪の垢《あか》をほじくり出すなんて。こっちは、これでもお客だぜ。」
「あら、だって、あなたたちも、皆こうしていらっしゃるんでしょう? 皆さん、爪がきれいだわ。」
「ものが違うんだよ。いったい、君は、風呂へはいるのかね。正直に言ってごらん。」
「それあ、はいりますわよ。」
 と、あいまいな返事をして、
「私ね、さっき本屋へ行ったのよ。そうしてこれを買って来たの。あなたのお名前も出ていてよ。」
 ふところから、新刊の文芸雑誌を出して、パラパラ頁を繰って、その、僕の名前の出ているところを捜している様子である。
「やめろ!」
 こらえ切れず、僕は怒声を発した。打ち据えてやりたいくらいの憎悪《ぞうお》を感じた。
「そんなものを、読むもんじゃない。わかりやしないよ、お前には。何だってまた、そんなものを買って来るんだい。無駄だよ。」
「あら、だって、あなたのお名前が。」
「それじゃ、お前は、僕の名前の出ている本を、全部片っ端から買い集めることが出来るかい。出来やしないだろう。」
 へんな論理であったが、僕はムカついて、たまらなかった。その雑誌は、僕のところにも恵送せられて来ていたのであるが、それには僕の小説を、それこそ、クソミソに非難している論文が載っているのを僕は知っているのだ。それを、眉山がれいの、けろりとした顔をして読む。いや、そんな理由ばかりではなく、眉山ごときに、僕の名前や、作品を、少しでもいじられるのが、いやでいやで、堪え切れなかっ
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