皮膚と心
太宰治
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)痒《かゆ》くも
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ぷつッと、ひとつ小豆粒に似た吹出物が、左の乳房の下に見つかり、よく見ると、その吹出物のまわりにも、ぱらぱら小さい赤い吹出物が霧を噴きかけられたように一面に散点していて、けれども、そのときは、痒《かゆ》くもなんともありませんでした。憎い気がして、お風呂で、お乳の下をタオルできゅっきゅっと皮のすりむけるほど、こすりました。それが、いけなかったようでした。家へ帰って鏡台のまえに坐り、胸をひろげて、鏡に写してみると、気味わるうございました。銭湯から私の家まで、歩いて五分もかかりませぬし、ちょっとその間に、お乳の下から腹にかけて手のひら二つぶんのひろさでもって、真赤に熟れて苺《いちご》みたいになっているので、私は地獄絵を見たような気がして、すっとあたりが暗くなりました。そのときから、私は、いままでの私でなくなりました。自分を、人のような気がしなくなりました。気が遠くなる、というのは、こんな状態を言うのでしょうか。私は永いこと、ぼんやり坐って居りました。暗灰色の入道雲が、もくもく私のぐるりを取り囲んでいて、私は、いままでの世間から遠く離れて、物の音さえ私には幽《かす》かにしか聞えない、うっとうしい、地の底の時々刻々が、そのときから、はじまったのでした。しばらく、鏡の中の裸身を見つめているうちに、ぽつり、ぽつり、雨の降りはじめのように、あちら、こちらに、赤い小粒があらわれて、頸《くび》のまわり、胸から、腹から、背中のほうにまで、まわっている様子なので、合せ鏡して背中を写してみると、白い背中のスロオプに赤い霰《あられ》をちらしたように一ぱい吹き出ていましたので、私は、顔を覆ってしまいました。
「こんなものが、できて。」私は、あの人に見せました。六月のはじめのことで、ございます。あの人は、半袖のワイシャツに、短いパンツはいて、もう今日の仕事も、一とおりすんだ様子で、仕事机のまえにぼんやり坐って煙草を吸っていましたが、立って来て、私にあちこち向かせて、眉をひそめ、つくづく見て、ところどころ指で押してみて、
「痒くないか。」と聞きました。私は、痒くない、と答えました。ちっとも、なんとも無いのです。あの人は、首をかしげて、それから私を縁側の、かっと西日の当る箇所に立たせ、裸身の私をくるくる廻して、なおも念入りに調べていました。あの人は、私のからだのことに就いては、いつでも、細かすぎるほど気をつけてくれます。ずいぶん無口で、けれども、しんは、いつでも私を大事にします。私は、ちゃんと、それを知っていますから、こうして縁側の明るみに出されて、恥ずかしいはだかの姿を、西に向け東に向け、さんざ、いじくり廻されても、かえって神様に祈るような静かな落ちついた気持になり、どんなに安心のことか。私は、立ったまま軽く眼をつぶっていて、こうして死ぬまで、眼を開きたくない気持でございました。
「わからねえなあ。ジンマシンなら、痒い筈だが。まさか、ハシカじゃなかろう。」
私は、あわれに笑いました。着物を着直しながら、
「糠《ぬか》に、かぶれたのじゃないかしら。私、銭湯へ行くたんびに、胸や頸を、とてもきつく、きゅっきゅっこすったから。」
それかも知れない。それだろう、ということになり、あの人は薬屋に行き、チュウブにはいった白いべとべとした薬を買って来て、それを、だまって私のからだに、指で、すり込むようにして塗ってくれました。すっと、からだが涼しく、少し気持も軽くなり、
「うつらないものかしら。」
「気にしちゃいけねえ。」
そうは、おっしゃるけれども、あの人の悲しい気持が、それは、私を悲しがってくれる気持にちがいないのだけれど、その気持が、あの人の指先から、私の腐った胸に、つらく響いて、ああ早くなおりたいと、しんから思いました。
あの人は、かねがね私の醜い容貌を、とても細心にかばってくれて、私の顔の数々の可笑《おか》しい欠点、――冗談にも、おっしゃるようなことは無く、ほんとうに露ほども、私の顔を笑わず、それこそ日本晴れのように澄んで、余念ない様子をなさって、
「いい顔だと思うよ。おれは、好きだ。」
そんなことさえ、ぷつんとおっしゃることがあって、私は、どぎまぎして困ってしまうこともあるのです。私どもの結婚いたしましたのは、ついことしの三月でございます。結婚、という言葉さえ、私には、ずいぶんキザで、浮わついて、とても平気で口に言い出し兼ねるほど、私どもの場合は、弱く貧しく、てれくさいものでございました。だいいち、私は、もう二十八でございますもの。こんな、おたふくゆえ、縁遠くて、それに二十四、五までには、私にだって、二つ、三つ、そんな話もあったのですが、まとまりかけて
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