は、あの蔓バラ模様は、外国の人さえ覚えていて、あの店の名前を知らなくても、蔓バラを典雅に絡《から》み合せた特徴ある図案は、どなただって一度は見て、そうして、記憶しているほどでございますものね。私なども、女学校のころから、もう、あの蔓バラ模様を知っていたような気がいたします。私は、奇妙に、あの図案にひかれて、女学校を出てからも、お化粧品は、全部あの化粧品店のものを使って、謂わば、まあ、フアンでございました。けれども私は、いちどだって、あの蔓バラ模様の考案者については、思ってみたことなかった。ずいぶん、うっかり者のようでございますが、けれども、それは私だけでなく、世間のひと皆、新聞の美しい広告を見ても、その図案工を思い尋ねることなど無いでしょう。図案工なんて、ほんとうに縁の下の力持ちみたいなものですのね。私だって、あの人のお嫁さんになって、しばらく経って、それからはじめて気がついたほどでございますもの。それを知ったときには、私は、うれしく、
「あたし、女学校のころからこの模様だいすきだったわ。あなたがお画きになっていたのねえ。うれしいわ。あたし、幸福ね。十年もまえから、あなたと遠くむすばれていたのよ。こちらへ来ることに、きまっていたのね。」と少しはしゃいで見せましたら、あの人は顔を赤くして、
「ふざけちゃいけねえ。職人仕事じゃねえか、よ。」と、しんから恥ずかしそうに、眼をパチパチさせて、それから、フンと力なく笑って、悲しそうな顔をなさいました。
 いつもあの人は、自分を卑下して、私がなんとも思っていないのに、学歴のことや、それから二度目だってことや、貧相のことなど、とても気にして、こだわっていらっしゃる様子で、それならば、私みたいなおたふくは、一体どうしたらいいのでしょう。夫婦そろって自信がなく、はらはらして、お互いの顔が、謂わば羞皺《はじしわ》で一ぱいで、あの人は、たまには、私にうんと甘えてもらいたい様子なのですが、私だって、二十八のおばあちゃんですし、それに、こんなおたふくなので、その上、あの人の自信のない卑下していらっしゃる様子を見ては、こちらにも、それが伝染しちゃって、よけいにぎくしゃくして来て、どうしても無邪気に可愛く甘えることができず、心は慕っているのに、逆にかえって私は、まじめに、冷い返事などしてしまって、すると、あの人は、気むずかしく、私には、そのお気持がわかっているだけに、尚《なお》のこと、どぎまぎして、すっかり他人行儀になってしまいます。あの人にも、また、私の自信のなさが、よくおわかりの様で、ときどき、やぶから棒に、私の顔、また、着物の柄など、とても不器用にほめることがあって、私には、あの人のいたわりがわかっているので、ちっとも嬉しいことはなく、胸が、一ぱいになって、せつなく、泣きたくなります。あの人は、いい人です。せんの女のひとのことなど、ほんとうに、これぼっちも匂わしたことがございません。おかげさまで、私は、いつも、そのことは忘れています。この家だって、私たち結婚してから新しく借りたのですし、あの人は、そのまえは、赤坂のアパアトにひとりぐらししていたのでございますが、きっと、わるい記憶を残したくないというお心もあり、また、私への優しい気兼ねもあったのでございましょう、以前の世帯《しょたい》道具一切合切、売り払い、お仕事の道具だけ持って、この築地《つきじ》の家へ引越して、それから、私にも僅かばかり母からもらったお金がございましたし、二人で少しずつ世帯の道具を買い集めたようなわけで、ふとんも箪笥《たんす》も、私が本郷の実家から持って来たのでございますし、せんの女のひとの影は、ちらとも映らず、あの人が、私以外の女のひとと六年も一緒にいらっしゃったなど、とても今では、信じられなくなりました。ほんとうに、あの人の不要の卑下さえなかったら、そうして私を、もっと乱暴に、怒鳴ったり、もみくちゃにして下さったなら、私も、無邪気に歌をうたって、どんなにでもあの人に甘えることができるように思われるのですが、きっと明るい家になれるのでございますが、二人そろって、醜いという自覚で、ぎくしゃくして、――私はともかく、あの人が、なんで卑下することがございましょう。小学校を出たきりと言っても、教養の点では大学出の学士と、ちっとも変るところございませぬ。レコオドだって、ずいぶん趣味のいいのを集めていらっしゃるし、私がいちども名前を聞いたことさえない外国の新しい小説家の作品を、仕事のあいまあいまに、熱心に読んでいらっしゃるし、それに、あの、世界的な蔓バラの図案。また、ご自身の貧乏を、ときどき自嘲《じちょう》なさいますけれど、このごろは仕事も多く、百円、二百円と、まとまった大金がはいって来て、せんだっても、伊豆の温泉につれていっていただいたほど
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