らくだまって歩いた。
「昨年の暮から、またこっちへ来ましたのでございますよ。」怒ったような眼つきでまっすぐを見ながら言った。
「それは。」僕にはほかに言いようがなかったのである。
「こっちが恋いしくなったものですから。」余念なげにそう囁《ささや》いた。
僕はだまりこくっていた。僕たちは、杉林のほうへゆっくり歩みをすすめていたのである。
「木下さんはどうしています。」
「相変らずでございます。ほんとうに相すみません。」青い毛糸の手袋をはめた両手を膝頭のあたりにまでさげた。
「困るですね。僕はこのあいだ喧嘩をしてしまいました。いったい何をしているのです。」
「だめなんでございます。まるで気ちがいですの。」
僕は微笑《ほほえ》んだ。曲った火箸の話を思い出したのである。それでは、あの神経過敏の女房というのはこのマダムだったのであろう。
「でもあれで何かきっと考えていますよ。」僕にはやはり一応、反駁《はんばく》して置きたいような気が起るのであった。
マダムはくすくす笑いながら答えた。
「ええ。華族さんになって、それからお金持ちになるんですって。」
僕はすこし寒かった。足をこころもち早めた
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