。けれど僕は、マダムが青扇をかなり愛しているらしいということだけは知り得たつもりであった。黄昏《たそがれ》の靄《もや》にぼかされて行く庭を眺めながら、僕はわずかの妥協をマダムに暗示してやった。
「木下さんはあれでやはり何か考えているのでしょう。それなら、ほんとの休息なんてないわけですね。なまけてはいないのです。風呂にはいっているときでも、爪を切っているときでも。」
「まあ。だからいたわってやれとおっしゃるの?」
 僕には、それが相当むきな調子に聞えたので、いくぶんせせら笑いの意味をこめて、なにか喧嘩《けんか》でもしたのですか、と反問してやった。
「いいえ。」マダムは可笑《おか》しそうにしていた。
 喧嘩をしたのにちがいないのだ。しかも、いまは青扇を待ちこがれているのにきまっている。
「しつれいしましょう。ああ。またまいります。」
 夕闇がせまっていて百日紅《さるすべり》の幹だけが、軟らかに浮きあがって見えた。僕は庭の枝折戸に手をかけ、振りむいてマダムにもいちど挨拶した。マダムは、ぽつんと白く縁側に立っていたが、ていねいにお辞儀を返した。僕は心のうちで、この夫婦は愛し合っているのだ、とわ
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