髪の手入れなどを少しして、それから約束したとおり、すぐに青扇のうちへ出かけたのである。けれども青扇はいなかったのだ。マダムがひとりいた。入日のあたる縁側で夕刊を読んでいたのである。僕は玄関のわきの枝折戸をあけて、小庭をつき切り、縁先に立った。いないのですか、と聞いてみると、
「ええ。」新聞から眼を離さずにそう答えた。下唇をつよく噛んで、不気嫌であった。
「まだ風呂から帰らないのですか?」
「そう。」
「はて。僕と風呂で一緒になりましてね。遊びに来いとおっしゃったものですから。」
「あてになりませんのでございますよ。」恥かしそうに笑って、夕刊のペエジを繰った。
「それでは、しつれいいたします。」
「あら。すこしお待ちになったら? お茶でもめしあがれ。」マダムは夕刊を畳んで僕のほうへのべてよこした。
 僕は縁側に腰をおろした。庭の紅梅の粒々の蕾《つぼみ》は、ふくらんでいた。
「木下を信用しないほうがよござんすよ。」
 だしぬけに耳のそばでそう囁《ささや》かれて、ぎょっとした。マダムは僕にお茶をすすめた。
「なぜですか?」僕はまじめであった。
「だめなんですの。」片方の眉をきゅっとあげて小さ
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