から四五日のあいだは知らぬふりをしていた。
 ところが、引越して一週間くらいたったころに、青扇とまた逢ってしまった。それが銭湯屋の湯槽《ゆぶね》のなかである。僕が風呂の流し場に足を踏みいれたとたんに、やあ、と大声をあげたものがいた。ひるすぎの風呂には他のひとの影がなかった。青扇がひとり湯槽につかっていたのである。僕はあわててしまい、あがり湯のカランのまえにしゃがんで石鹸をてのひらに塗り無数の泡を作った。よほどあわてていたものとみえる。はっと気づいたけれど、僕はそれでもわざとゆっくり、カランから湯を出して、てのひらの泡を洗いおとし、湯槽へはいった。
「先晩はどうも。」僕は流石《さすが》に恥かしい思いであった。
「いいえ。」青扇はすましこんでいた。「あなた、これは木曾川の上流ですよ。」
 僕は、青扇の瞳の方向によって、彼が湯槽のうえのペンキ画について言っているのだということを知った。
「ペンキ画のほうがよいのですよ。ほんとうの木曾川よりはね。いいえ。ペンキ画だからよいのでしょう。」そう言いながら僕をふりかえってみて微笑んだ。
「ええ。」僕も微笑んだ。彼の言葉の意味がわからなかったのである。
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