だ。
青扇は、僕の視線が彼の煙草にそそがれていることを知り、またそれを見つめた僕の気持ちをすぐに察してしまったようであった。
「ホープはいいですよ。甘くもないし、辛くもないし、なんでもない味なものだから好きなんだ。だいいち名前がよいじゃないか。」ひとりでそんな弁明らしいことを言ってから、今度はふと語調をかえた。「小説を書いたのです。十枚ばかり。そのあとがつづかないのです。」煙草を指先にはさんだままてのひらで両の鼻翼の油をゆっくり拭《ぬぐ》った。「刺激がないからいけないのだと思って、こんな試みまでもしてみたのですよ。一生懸命に金をためて、十二三円たまったから、それを持ってカフェへ行き、もっともばからしく使って来ました。悔恨《かいこん》の情をあてにしたわけですね。」
「それで書けましたか。」
「駄目でした。」
僕は噴きだした。青扇も笑い出して、ホープをぽんと庭へほうった。
「小説というものはつまらないですねえ。どんなによいものを書いたところで、百年もまえにもっと立派な作品がちゃんとどこかにできてあるのだもの。もっと新しい、もっと明日の作品が百年まえにできてしまっているのですよ。せいぜい真似るだけだねえ。」
「そんなことはないだろう。あとのひとほど巧いと思うな。」
「どこからそんなだいそれた確信が得られるの? 軽々しくものを言っちゃいけない。どこからそんな確信が得られるのだ。よい作家はすぐれた独自の個性じゃないか。高い個性を創るのだ。渡り鳥には、それができないのです。」
日が暮れかけていた。青扇は団扇でしきりに臑《すね》の蚊《か》を払っていた。すぐ近くに藪《やぶ》があるので、蚊も多いのである。
「けれど、無性格は天才の特質だともいうね。」
僕がこころみにそう言ってやると、青扇は、不満そうに口を尖らせては見せたものの、顔のどこやらが確かににたりと笑ったのだ。僕はそれを見つけた。とたんに僕の酔がさめた。やっぱりそうだ。これは、きっと僕の真似だ。いつか僕がここの最初のマダムに天才の出鱈目を教えてやったことがあったけれど、青扇はそれを聞いたにちがいない。それが暗示となって青扇の心にいままで絶えず働きかけその行いを掣肘《せいちゅう》して来たのではあるまいか。青扇のいままでのどこやら常人と異ったような態度は、すべて僕が彼になにげなく言ってやった言葉の期待を裏切らせまいとしてのもののようにも思われた。この男は、意識しないで僕に甘ったれ、僕のたいこもちを勤めていたのではないだろうか。
「あなたも子供ではないのだから、莫迦《ばか》なことはよい加減によさないか。僕だって、この家をただ遊ばせて置いてあるのじゃないよ。地代だって先月からまた少しあがったし、それに税金やら保険料やら修繕《しゅうぜん》費用なんかで相当の金をとられているのだ。ひとにめいわくをかけて素知らぬ顔のできるのは、この世ならぬ傲慢《ごうまん》の精神か、それとも乞食の根性か、どちらかだ。甘ったれるのもこのへんでよし給え。」言い捨てて立ちあがった。
「あああ。こんな晩に私が笛でも吹けたらなあ。」青扇はひとりごとのように呟《つぶや》きながら縁側へ僕を送って出て来た。
僕が庭先へおりるとき、暗闇のために下駄《げた》のありかがわからなかった。
「おおやさん。電燈をとめられているのです。」
やっと下駄を捜しだし、それをつっかけてから青扇の顔をそっと覗《のぞ》いた。青扇は縁先に立って澄んだ星空の一端が新宿辺の電燈のせいで火事のようにあかるくなっているのをぼんやり見ていた。僕は思い出した。はじめから青扇の顔をどこかで見たことがあると気にかかっていたのだが、そのときやっと思い出した。プーシュキンではない。僕の以前の店子《たなこ》であったビイル会社の技師の白い頭髪を短く角刈にした老婆の顔にそっくりであったのである。
十月、十一月、十二月、僕はこの三月間は青扇のもとへ行かない。青扇もまたもちろん僕のところへは来ないのだ。ただいちど、銭湯屋で一緒になったことがあるきりである。夜の十二時ちかく、風呂もしまいになりかけていたころであった。青扇は素裸のまま脱衣場の畳のうえにべったり坐って足の指の爪を切っていたのである。風呂からあがりたてらしく、やせこけた両肩から湯気がほやほやたっていた。僕の顔を見てもさほど驚かずに、
「夜爪を切ると死人が出るそうですね。この風呂で誰か死んだのですよ。おおやさん。このごろは私、爪と髪ばかり伸びて。」
にやにやうす笑いしてそんなことを言い言いぱちんぱちんと爪を切っていたが、切ってしまったら急にあわてふためいてどてらを着込み、れいの鏡も見ずにそそくさと帰っていったのである。僕にはそれもまたさもしい感じで、ただ軽侮《けいぶ》の念を増しただけであった。
ことしのお正月、僕は近所
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