射し合っているようで、加速度的に僕は彼にこだわりはじめたのであった。青扇はいまに傑作を書くだろうか。僕は彼の渡り鳥の小説にたいへんな興味を持ちはじめたのである。南天燭《なんてんしょく》を植木屋に言いつけて彼の玄関の傍に植えさせてやったのは、そのころのことであった。
 八月には、僕は房総《ぼうそう》のほうの海岸で凡《およ》そ二月をすごした。九月のおわりまでいたのである。帰ってすぐその日のひるすぎ、僕は土産《みやげ》の鰈《かれい》の干物《ひもの》を少しばかり持って青扇を訪れた。このように僕は、ただならぬ親睦《しんぼく》を彼に感じ、力こぶをさえいれていたのであった。
 庭先からはいって行くと、青扇は、いかにも嬉しげに僕をむかえた。頭髪を短く刈ってしまって、いよいよ若く見えた。けれど容色はどこやらけわしくなっていたようであった。紺絣《こんがすり》の単衣《ひとえ》を着ていた。僕もなんだかなつかしくて、彼の痩せた肩にもたれかかるようにして部屋へはいったのである。部屋のまんなかにちゃぶだいが具えられ、卓のうえには、一ダアスほどのビイル瓶とコップが二つ置かれていた。
「不思議です。きょうは来るとたしかにそう思っていたのです。いや、不思議です。それで朝からこんな仕度をして、お待ち申していました。不思議だな。まあ、どうぞ。」
 やがて僕たちはゆるゆるとビイルを呑みはじめたわけであった。
「どうです。お仕事ができましたか?」
「それが駄目でした。この百日紅《さるすべり》に油蝉《あぶらぜみ》がいっぱいたかって、朝っから晩までしゃあしゃあ鳴くので気が狂いかけました。」
 僕は思わず笑わされた。
「いや、ほんとうですよ。かなわないので、こんなに髪を短くしたり、さまざまこれで苦心をしたのですよ。でも、きょうはよくおいでくださいました。」黒ずんでいる唇をおどけものらしくちょっと尖《とが》らせて、コップのビイルをほとんど一息に呑んでしまった。
「ずっとこっちにいたのですか。」僕は唇にあてたビイルのコップを下へ置いた。コップの中には蚋《ぶよ》に似た小さい虫が一匹浮いて、泡のうえでしきりにもがいていた。
「ええ。」青扇は卓に両|肘《ひじ》をついてコップを眼の高さまでささげ、噴きあがるビイルの泡をぼんやり眺めながら余念なさそうに言った。「ほかに行くところもないのですものねえ。」
「ああ。お土産《みやげ》を持って来ましたよ。」
「ありがとう。」
 何か考えているらしく、僕の差しだす干物には眼もくれず、やはり自分のコップをすかして見ていた。眼が坐っていた。もう酔っているらしいのである。僕は、小指のさきで泡のうえの虫を掬《すく》いあげてから、だまってごくごく呑みほした。
「貧《ひん》すれば貪《どん》すという言葉がありますねえ。」青扇はねちねちした調子で言いだした。「まったくだと思いますよ。清貧なんてあるものか。金があったらねえ。」
「どうしたのです。へんに搦《から》みつくじゃないか。」
 僕は膝をくずして、わざと庭を眺めた。いちいちとり合っていても仕様がないと思ったのである。
「百日紅《さるすべり》がまだ咲いていますでしょう? いやな花だなあ。もう三月は咲いていますよ。散りたくても散れぬなんて、気のきかない樹だよ。」
 僕は聞えぬふりして卓のしたの団扇《うちわ》をとりあげ、ばさばさ使いはじめた。
「あなた。私はまたひとりものですよ。」
 僕は振りかえった。青扇はビイルをひとりでついで、ひとりで呑んでいた。
「まえから聞こうと思っていたのですが、どうしたのだろう。あなたは莫迦《ばか》に浮気じゃないか。」
「いいえ。みんな逃げてしまうのです。どう仕様もないさ。」
「しぼるからじゃないかな。いつかそんな話をしていましたね。失礼だが、あなたは女の金で暮していたのでしょう?」
「あれは嘘です。」彼は卓のしたのニッケルの煙草入から煙草を一本つまみだし、おちついて吸いはじめた。「ほんとうは私の田舎からの仕送りがあるのです。いいえ。私は女房をときどきかえるのがほんとうだと思うね。あなた。箪笥《たんす》から鏡台まで、みんな私のものです。女房は着のみ着のままで私のうちへ来て、それからまたそのままいつでも帰って行けるのです。私の発明だよ。」
「莫迦だね。」僕は悲しい気持ちでビイルをあおった。
「金があればねえ。金がほしいのですよ。私のからだは腐っているのだ。五六丈くらいの滝に打たせて清めたいのです。そうすれば、あなたのようなよい人とも、もっともっとわけへだてなくつき合えるのだし。」
「そんなことは気にしなくてよいよ。」
 屋賃などあてにしていないことを言おうと思ったが、言えなかった。彼の吸っている煙草がホープであることにふと気づいたからでもあった。お金がまるっきりないわけでもないな、と思ったの
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