頭《けいとう》の花が咲いていた。少女は耳の附け根まであかくなった顔を錆《さ》びた銀盆で半分かくし、瞳の茶色なおおきい眼を更におおきくして彼を睨《にら》んだ。青扇はその視線を片手で払いのけるようにしながら、
「その胸像の額をごらんください。よごれているでしょう? 仕様がないんです。」
少女は眼にもとまらぬくらいの素早さで部屋から飛び出た。
「どうしたのです。」僕には訳がわからなかった。
「なに。てい子のむかしのあれの胸像なんだそうです。たったひとつの嫁入り道具ですよ。キスするのです。」こともなげに笑っていた。
僕はいやな気がした。
「おいやのようですね。けれども世の中はこんな工合いになっているのです。仕様がありませんよ。見ていると感心に花を毎日とりかえます。きのうはダリヤでした。おとといは蛍草でした。いや、アマリリスだったかな。コスモスだったかしら。」
この手だ。こんな調子にまたうかうか乗せられたなら、前のように肩すかしを食わされるのである。そう気づいたゆえ、僕は意地悪くかかって、それにとりあってやらなかったのだ。
「いや。お仕事のほうは、もうはじめているのですか?」
「ああ、それは、」紅茶を一口すすった。「そろそろはじめていますけれど、大丈夫ですよ。私はほんとうは、文学書生なんですからね。」
僕は紅茶の茶碗の置きどころを捜しながら、
「でもあなたの、ほんとうは、は、あてになりませんからね。ほんとうは、というそんな言葉でまたひとつ嘘の上塗りをしているようで。」
「や、これは痛い。そうぽんぽん事実を突きたがるものじゃないな。私はね、むかし森鴎外、ご存じでしょう? あの先生についたものですよ。あの青年という小説の主人公は私なのです。」
これは僕にも意外であった。僕もその小説は余程まえにいちど読んだことがあって、あのかそけきロマンチシズムは、永く僕の心をとらえ離さなかったものであるが、けれどもあのなかのあまりにもよろずに綺麗《きれい》すぎる主人公にモデルがあったとは知らなかったのである。老人の頭ででっちあげられた青年であるから、こんなに綺麗すぎたのであろう。ほんとうの青年は猜忌《さいき》や打算もつよく、もっと息苦しいものなのに、と僕にとって不満でもあったあの水蓮《すいれん》のような青年は、それではこの青扇だったのか。そう興奮しかけたけれど、すぐいやいやと用心したの
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