、しかも畳のうえには淡緑色の絨氈《じゅうたん》が敷かれていた。部屋のおもむきが一変していたのである。青扇は僕をソファに坐らせた。
 庭の百日紅《さるすべり》は、そろそろ猩々緋《しょうじょうひ》の花をひらきかけていた。
「いつも、ほんとうに相すみません。こんどは大丈夫ですよ。しごとが見つかりました。おい、ていちゃん。」青扇は僕とならんでソファに腰をおろしてから、隣りの部屋へ声をかけたのである。
 水兵服を着た小柄な女が、四畳半のほうから、ぴょこんと出て来た。丸顔の健康そうな頬をした少女であった。眼もおそれを知らぬようにきょとんと澄んでいた。
「おおやさんだよ。ご挨拶をおし。うちの女です。」
 僕はおやおやと思った。先刻の青扇の恥らいをふくんだ微笑《ほほえ》みの意味がとけたのであった。
「どんなお仕事でしょう。」
 その少女がまた隣りの部屋にひっこんでから、僕は、ことさらに生野暮をよそって仕事のことをたずねてやった。きょうばかりは化かされまいぞと用心をしていたのである。
「小説です。」
「え?」
「いいえ。むかしから私は、文学を勉強していたのですよ。ようやくこのごろ芽が出たのです。実話を書きます。」澄ましこんでいた。
「実話と言いますと?」僕はしつこく尋ねた。
「つまり、ないことを事実あったとして報告するのです。なんでもないのさ。何県何村何番地とか、大正何年何月何日とか、その頃の新聞で知っているであろうがとかいう文句を忘れずにいれて置いてあとは、必ずないことを書きます。つまり小説ですねえ。」
 青扇は彼の新妻のことで流石《さすが》にいくぶん気おくれしているのか、僕の視線を避けるようにして、長い頭髪のふけを掻《か》き落したり膝《ひざ》をなんども組み直したりなどしながら、少し雄弁をふるったのである。
「ほんとうによいのですか。困りますよ。」
「大丈夫。大丈夫。ええ。」僕の言葉をさえぎるようにして大丈夫を繰りかえし、そうしてほがらかに笑っていた。僕は、信じた。
 そのとき、さきの少女が紅茶の銀盆をささげてはいって来たのだ。
「あなた、ごらんなさい。」青扇は紅茶の茶碗を受けとって僕に手渡し自分の茶碗を受けとりしなに、そう言ってうしろを振りむいた。床の間には、もう北斗七星の掛軸がなくなっていて、高さが一尺くらいの石膏《せっこう》の胸像がひとつ置かれてあった。胸像のかたわらには、鶏
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