点の清潔も無い。どろどろ油ぎって、濁って、ぶざまで、ああ、もう私は、永遠にウェルテルではない! 地団駄《じだんだ》を踏む思いである。行為に対しての自責では無かった。運がわるい。ぶざまだ。もう、だめだ。いまのあの一瞬で、私は完全に、ロマンチックから追放だ。実に、おそろしい一瞬である。見られた。ひともあろうに、ゆきさんに見られた。笠井さんは、醜怪な、奇妙な表情を浮べて、内心、動乱の火の玉を懐いたまま、ものもわからず勘定《かんじょう》をすまし、お茶代を五円置いて、下駄をはくのも、もどかしげに、
「やあ、さようなら。こんどゆっくり、また来ます。」くやしく、泣きたかった。
宿の玄関には、青白い顔の女将をはじめ、また、ゆきさんも、それから先刻の女中さんも、並んでていねいにお辞儀をして、一様に、おだやかな、やさしい微笑を浮べて笠井さんを見送っていた。
笠井さんは、それどころではなかった。もはや、道々、わあ、わあ大声あげて、わめき散らして、雷神の如く走り廻りたい気持である。私は、だめだ。シェリイ、クライスト、ああ、プウシュキンまでも、さようなら。私は、あなたの友でない。あなたたちは、美しかった。私
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