甲斐駒《かいこま》。海抜二千九百六十六|米《メートル》。どんなもんだい、と胸の奥で、こっそりタンカに似たものを呟いてみるのだが、どうもわれながら、栄えない。俗っぽく、貧しく、みじんも文学的な高尚さが無い。変ったなあ、としんから笠井さんは、苦笑した。笠井さんだって、五、六年まえまでは、新しい作風を持っている作家として、二、三の先輩の支持を受け、読者も、笠井さんを反逆的な、ハイカラな作家として喝采《かっさい》したものなのであるが、いまは、めっきり、だめになった。そんな冒険の、ハイカラな作風など、どうにも気はずかしくて、いやになった。一向に、気が跳《はず》まないのである。そうして頗《すこぶ》る、非良心的な、その場限りの作品を、だらだら書いて、枚数の駈けひきばかりして生きて来た。芸術の上の良心なんて、結局は、虚栄の別名さ。浅墓《あさはか》な、つめたい、むごい、エゴイズムさ。生活のための仕事にだけ、愛情があるのだ。陋巷《ろうこう》の、つつましく、なつかしい愛情があるのだ。そんな申しわけを呟きながら、笠井さんは、ずいぶん乱暴な、でたらめな作品を、眼をつぶって書き殴っては、発表した。生活への殉愛であ
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