ろりと落した。カチャンと澄んだ音がして、ガラスがこまかくこわれた。もはや修繕《しゅうぜん》の仕様も無い。時計のガラスなんか、どこにも売ってやしない。
「なんだ、もう駄目か。」
私は、がっかりした。
「ばかねえ。」と義妹は低くひとりごとのように言い、けれども、その唯一といっていいくらいの財産が一瞬にして失われた事を、さして気にも留めていない様子だったので、私は少しほっとした。
そのお家の庭の隅《すみ》で炊事《すいじ》をして、その夕方、六畳間でみんな早寝という事になり、けれども妻も義妹もひどく疲れていながらなかなか眠れぬ様子で、何かと身の振方などに就いて小声で相談している。
「なに、心配する事はないよ。みんなで、おれの生れ故郷へ行くさ。何とかなるよ。」
妻も妹も沈黙した。私のどんな意見も、この二人には、前からあまり信用されていないのである。二人は、めいめい他の事を考えているらしく、何とも答えない。
「やっぱりどうも、おれは信用が無いようだな。」と私は苦笑して、「けれども、たのむから、こんどだけは、おれの言うとおりにしてくれ。」
妹は暗闇の中で、クスクス笑った。そんなにおっしゃってもと、いうような気持らしい。そうして、すぐまた他の事に就いて妻とひそひそ相談をはじめる。
「それじゃまあ勝手にするさ。」と私も笑いながら言い、「どうも、おれは信用が無いので困る。」
「そりゃそうよ。」と妻は突然、あらたまったような口調で言い、「父さんは、いつでも本気なのか冗談なのかわからないような非常識な事ばかりおっしゃるんだもの。信用の無いのは当り前よ。こんなになっても、きっとお酒の事ばかり考えていらっしゃるんだから。」
「まさか、それほどでもなかろう。」
「でも、今晩だって、お酒があったら、お飲みになるでしょう。」
「そりゃ、飲む、かも知れない。」
とにかく、このお家にもこれ以上ご厄介《やっかい》をかけてはいけない、明日、また他の家を捜そうという事に二人の相談はまとまった様子で、翌《あく》る日、れいの穴から掘り出した品々を大八車《だいはちぐるま》に積んで、妹のべつの知人のところへ行った。そこのお家は、かなり広く、五十歳くらいの御主人は、なかなかの人格者のように見受けられた。私たちは奥の十畳間を貸していただく事が出来た。病院も、見つけた。
県立病院が焼けて、それが郊外の或る焼け残った建築物に移転して来たという事を、そのお家の奥さんから聞いたので、私と妻は子供をひとりずつ背負ってすぐに出かけた。桑畑のあいだを通って近道をすると、十分間くらいで行ける山の裾《すそ》にその間に合せの県立病院があった。
眼科のお医者は女医であった。
「この女の子のほうは、てんで眼があかないので困ります。田舎のほうに転出しようかとも考えているのですが、永い汽車旅行のあいだに悪化してしまうといけませんし、とにかくこの子の眼がよくならなければ私たちはどこへも行けない状態で、ほんとに困ってしまって。」などと私は汗を拭きながら、しきりに病状を訴え、女医の手当のわずかでも懇切ならん事を策した。
女医は気軽に、
「なに、すぐ眼があくでしょう。」
「そうでしょうか。」
「眼球は何ともなっていませんからね、まあ、もう四、五日も通《かよ》ったら、旅行も出来るようになるでしょう。」
「注射のようなものは、」と妻は横合から口を出して、「ございませんでしょうか。」
「あるには、ありますけど。」
「ぜひ、どうか、お願い致します。」と妻は慇懃《いんぎん》にお辞儀をした。
注射がきいたのか、どうか、或《ある》いは自然に治る時機になっていたのか、その病院にかよって二日目の午後に眼があいた。
私はただやたらに、よかった、よかったを連発し、そうして早速、家の焼跡を見せにつれて行った。
「ね、お家が焼けちゃったろう?」
「ああ、焼けたね。」と子供は微笑している。
「兎《うさぎ》さんも、お靴も、小田桐《おだぎり》さんのところも、茅野《ちの》さんのところも、みんな焼けちゃったんだよ。」
「ああ、みんな焼けちゃったね。」と言って、やはり微笑している。
底本:「太宰治全集8」ちくま文庫、筑摩書房
1989(平成元)年4月25日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:ゆうこ
2000年3月21日公開
2005年11月4日修正
青空文庫作成ファイル:
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