が、所謂「老大家」たちが、国語の乱脈をなげいているらしい。キザである。いい気なものだ。国語の乱脈は、国の乱脈から始まっているのに目をふさいでいる。あの人たちは、大戦中でも、私たちの、何の頼りにもならなかった。私は、あの時、あの人たちの正体を見た、と思った。
あやまればいいのに、すみませんとあやまればいいのに。もとの姿のままで死ぬまで同じところに居据ろうとしている。
所謂「若い者たち」もだらしがないと思う。雛段《ひなだん》をくつがえす勇気がないのか。君たちにとって、おいしくもないものは、きっぱり拒否してもいいのではあるまいか。変らなければならないのだ。私は、新らしがりやではないけれども、けれども、この雛段のままでは、私たちには、自殺以外にないように実感として言えるように思う。
これだけ言っても、やはり「若い者」の誇張、或いは気焔《きえん》としか感ぜられない「老大家」だったなら、私は、自分でこれまで一ばんいやなことをしなければならぬ。脅迫ではないのだ。私たちの苦しさが、そこまで来ているのだ。
今月は、それこそ一般概論の、しかもただぷんぷん怒った八ツ当りみたいな文章になったけれども、
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