して来るのですもの。もう読むまいと思っても、それでも何か気がかりで、新聞などに島田の新刊書の広告などが出ていると、ついまた注文してしまって、そうして読んで、悶《もだ》えるのです。実に私は不仕合せな男です。そう思いませんか。島田の小説の中にこんな俳句がありました。白足袋《しろたび》や主婦の一日始まりぬ。白足袋や主婦の一日始まりぬ。実際、ひとを馬鹿にしている。私はあの句を読んだ時には、あなたの甲斐々々《かいがい》しく、また、なまめかしい姿がありありと眼の前に浮んで来て、いても立っても居られない気持でした。何だかもう、あなたたちにいいなぶりものにされているような気がして、仕様がありませんでした。これでは全く、酒を飲んでひとに乱暴を働きたくなるのも、もっともな事だと、そう思いませんか。いっそもう誰か田舎女《いなかおんな》をめとって、と考えた事もありましたが、白足袋や主婦の一日始まりぬ、そのあなたの美しいまぼろしが、いつも眼さきにちらついていながら、田舎女の、のろくさいおかみさん振りを眺めて暮すのは、あんまりみじめです。私もみじめですし、また、そんな事は何も知らずにどたばた立ち働いているその田舎女にも気の毒です。数枝さん、私はあなたのためにもう一生、妻をめとられない男になりました。島田の出征の事は、私は少しも知りませんでした。島田の小説がこの数年来ちっとも発表されなくなったのも、この大戦で、小説家たちも軍需工場か何かに進出して行かざるを得なくなったからだろうくらいに考えていました。しかし、新作の小説が出なくても、私の手許《てもと》には、以前の島田の本が何冊も残っています。あまりのろわしくて、焼いてしまおうかと思った事もありましたが、何だかそれは、あなたのからだを焼くような気がして、とても私には出来ませんでした。あの島田の本を、憎んでいながら、それでも、その本の中のあなたが慕わしくて、私は自分の手許から離す事が出来なかったのです。この十年間、あなたはいつも私の傍にいたのです。白足袋や主婦の一日始まりぬ。あなたのその綺麗な姿が、朝から晩まで、私の身のまわりにちらちら動いて、はたらいているのです。忘れようたって、とても駄目です。そこへ突然、あなたが帰って来られた。聞けば島田は、もうずっと前に出征して、そうしてどうやら戦死したらしいという事で、私は、……。
(数枝) それからあとは言
前へ
次へ
全25ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング