《いっかい》のデリッタンティとでも、……」
「何かご用ですか?」
「ファンなんです。先生の音楽評論のファンなんです。このごろ、あまりお書きにならぬようですね。」
「書いていますよ。」
しまった! と青年は、暗闇の中で口をゆがめる。この青年は、東京の或る大学に籍を有しているのだが、制帽も制服も持っていない。そうして、ジャンパーと、それから間着《あいぎ》の背広服を一揃い持っている。肉親からの仕送りがまるで無い様子で、或《あ》る時は靴磨《くつみが》きをした事もあり、また或る時は宝くじ売りをした事もあって、この頃は、表看板は或る出版社の編輯《へんしゅう》の手伝いという事にして、またそれも全くの出鱈目《でたらめ》では無いが、裏でちょいちょい闇商売などに参画しているらしいので、ふところは、割にあたたかの模様である。
「音楽は、モオツアルトだけですね。」
お世辞の失敗を取りかえそうとして、山名先生のモオツアルト礼讃《らいさん》の或る小論文を思い出し、おそるおそるひとりごとみたいに呟《つぶや》いて先生におもねる。
「そうとばかりも言えないが、……」
しめた! 少しご機嫌《きげん》が直って来たよう
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