渡り鳥
太宰治

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)快楽《けらく》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)無帽|蓬髪《ほうはつ》の、

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)おれが[#「おれが」に傍点]その羊を食う
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[#ここから7字下げ]
おもてには快楽《けらく》をよそい、心には悩みわずらう。
                   ――ダンテ・アリギエリ
[#ここで字下げ終わり]



 晩秋の夜、音楽会もすみ、日比谷公会堂から、おびただしい数の烏《からす》が、さまざまの形をして、押し合い、もみ合いしながらぞろぞろ出て来て、やがておのおのの家路に向って、むらむらぱっと飛び立つ。
「山名先生じゃ、ありませんか?」
 呼びかけた一羽の烏は、無帽|蓬髪《ほうはつ》の、ジャンパー姿で、痩《や》せて背の高い青年である。
「そうですが、……」
 呼びかけられた烏は中年の、太った紳士である。青年にかわまず、有楽町のほうに向ってどんどん歩きながら、
「あなたは?」
「僕ですか?」
 青年は蓬髪を掻《か》き上げて笑い、
「まあ、一介《いっかい》のデリッタンティとでも、……」
「何かご用ですか?」
「ファンなんです。先生の音楽評論のファンなんです。このごろ、あまりお書きにならぬようですね。」
「書いていますよ。」
 しまった! と青年は、暗闇の中で口をゆがめる。この青年は、東京の或る大学に籍を有しているのだが、制帽も制服も持っていない。そうして、ジャンパーと、それから間着《あいぎ》の背広服を一揃い持っている。肉親からの仕送りがまるで無い様子で、或《あ》る時は靴磨《くつみが》きをした事もあり、また或る時は宝くじ売りをした事もあって、この頃は、表看板は或る出版社の編輯《へんしゅう》の手伝いという事にして、またそれも全くの出鱈目《でたらめ》では無いが、裏でちょいちょい闇商売などに参画しているらしいので、ふところは、割にあたたかの模様である。
「音楽は、モオツアルトだけですね。」
 お世辞の失敗を取りかえそうとして、山名先生のモオツアルト礼讃《らいさん》の或る小論文を思い出し、おそるおそるひとりごとみたいに呟《つぶや》いて先生におもねる。
「そうとばかりも言えないが、……」
 しめた! 少しご機嫌《きげん》が直って来たようだ。賭《か》けてもいい、この先生の、外套《がいとう》の襟《えり》の蔭の頬が、ゆるんだに違いない。
 青年は図に乗り、
「近代音楽の堕落は、僕は、ベートーヴェンあたりからはじまっていると思うのです。音楽が人間の生活に向き合って対決を迫るとは、邪道だと思うんです。音楽の本質は、あくまでも生活の伴奏であるべきだと思うんです。僕は今夜、久し振りにモオツアルトを聞き、音楽とは、こんなものだとつくづく、……」
「僕は、ここから乗るがね。」
 有楽町駅である。
「ああ、そうですか、失礼しました。今夜は、先生とお話が出来て、うれしかったです。」
 ズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、青年は、軽くお辞儀をして、先生と別れ、くるりと廻れ右をして銀座のほうに向う。
 ベートーヴェンを聞けば、ベートーヴェンさ。モオツアルトを聞けば、モオツアルトさ。どっちだっていいじゃないか。あの先生、口髭《くちひげ》をはやしていやがるけど、あの口髭の趣味は難解だ。うん、どだいあの野郎には、趣味が無いのかも知れん。うん、そうだ、評論家というものには、趣味が無い、したがって嫌悪《けんお》も無い。僕も、そうかも知れん。なさけなし。しかし、口髭……。口髭を生《は》やすと歯が丈夫になるそうだが、誰かに食らいつくため、まさか。宮さまがあったな。洋服に下駄《げた》ばきで、そうしてお髭が見事だった。お可哀そうに。実に、おん心理を解するに苦しんだな。髭がその人の生活に対決を迫っている感じ、とでも言おうか。寝顔が、すごいだろう。僕も、生やして見ようかしら。すると何かまた、わかる事があるかも知れない。マルクスの口髭は、ありゃ何だ。いったいあれは、どういう構造になっているのかな。トウモロコシを鼻の下にさしはさんでいる感じだ。不可解。デカルトの口髭は、牛のよだれのようで、あれがすなわち懐疑思想……。おや? あれは、誰だったかな? 田辺さんだ、間違い無し。四十歳、女もしかし、四十になると、……いつもお小遣《こづか》い銭《せん》を持っているから、たのもしい。どだい彼女は、小造りで若く見えるから、たすかる。
「田辺さん。」
 うしろから肩を叩《たた》く。げえっ! 緑のベレ帽。似合わない。よせばいいのに。イデオロギストは、趣味を峻拒《しゅんきょ》すか。でも、としを考えなさい、としを。
「どなたでしたかしら?」
 近眼かい? 溜息《ため
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