」をののしり、己れの所謂《いわゆる》「孤高」を誇るのが、外国にも、日本にも昔はみな偉い人たちが「孤高」であったという伝説に便乗して、以て吾が身の侘《わ》びしさをごまかしている様子のようにも思われる。

「孤高」と自らを号しているものには注意をしなければならぬ。第一、それは、キザである。ほとんど例外なく、「見破られかけたタルチュフ」である。どだい、この世の中に、「孤高」ということは、無いのである。孤独ということは、あり得るかもしれない。いや、むしろ、「孤低」の人こそ多いように思われる。

 私の現在の立場から言うならば、私は、いい友達が欲しくてならぬけれども、誰も私と遊んでくれないから、勢い、「孤低」にならざるを得ないのだ。と言っても、それも嘘で、私は私なりに「徒党」の苦しさが予感せられ、むしろ「孤低」を選んだほうが、それだって決して結構なものではないが、むしろそのほうに住んでいたほうが、気楽だと思われるから、敢《あ》えて親友交歓を行わないだけのことなのである。

 それでまた「徒党」について少し言ってみたいが、私にとって(ほかの人は、どうだか知らない)最も苦痛なのは、「徒党」の一味の馬
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