天狗
太宰治
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)猿簑《さるみの》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ゆりけす[#「ゆりけす」に傍点]
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暑い時に、ふいと思い出すのは猿簑《さるみの》の中にある「夏の月」である。
市中《いちなか》は物のにほひや夏の月 凡兆
いい句である。感覚の表現が正確である。私は漁師まちを思い出す。人によっては、神田神保町あたりを思い浮べたり、あるいは八丁堀の夜店などを思い出したり、それは、さまざまであろうが、何を思い浮べたってよい。自分の過去の或る夏の一夜が、ありありとよみがえって来るから不思議である。
猿簑は、凡兆《ぼんちょう》のひとり舞台だなんていう人さえあるくらいだが、まさか、それほどでもあるまいけれど、猿簑に於いては凡兆の佳句が二つ三つ在るという事だけは、たしかなようである。「市中は物のにほひや夏の月」これくらいの佳句を一生のうちに三つも作ったら、それだけで、その人は俳諧の名人として、歴史に残るかも知れない。佳句というものは少い。こころみに夏の月の巻をしらべてみても、へんな句が、ずいぶん多い。
市中は物のにほひや夏の月
芭蕉がそれにつづけて、
あつしあつしと門々《かどかど》の声
これが既に、へんである。所謂《いわゆる》、つき過ぎている。前句の説明に堕していて、くどい。蛇足的な説明である。たとえば、こんなものだ。
古池や蛙《かわず》とびこむ水の音
音の聞えてなほ静かなり
これ程ひどくもないけれども、とにかく蛇足的註釈に過ぎないという点では同罪である。御師匠も、まずい附けかたをしたものだ。つき過ぎてもいかん、ただ面影にして附くべし、なんていつも弟子たちに教えている癖に御師匠自身も時には、こんな大失敗をやらかす。附きも附いたり、べた附きだ。凡兆の名句に、師匠が歴然と敗北している。手も足も出ないという情況だ。あつしあつしと門々の声。前句で既に、わかり切っている事だ。芸の無い事、おびただしい。それにつづけて、
二番草取りも果さず穂に出《いで》て
去来《きょらい》だ。苦笑を禁じ得ない。さぞや苦労をして作り出した句であろう。去来は真面目《まじめ》な人である。しゃれた人ではない。けれども、野暮《やぼ》な人は、とかく、しゃれた事をしてみたがるものである。器用、奇智にあこがれるのである。野暮な人は、野暮のままの句を作るべきだ。その時には、器用、奇智などの輩のとても及ばぬ立派な句が出来るものだ。
湖の水まさりけり五月雨
去来の傑作である。このように真面目に、おっとりと作ると実にいいのだが、器用ぶったりなんかして妙な工夫なんかすると、目もあてられぬ。さんたんたるものである。去来は、その悲惨に気がつかず、かえってしたり顔などをしているのだから、いよいよ手がつけられなくなる。ただ、ただ、可愛いというより他は無い。芭蕉も、あきらめて、去来を一ばん愛した。二番草取りも果さず穂に出て。面白くない句だ。なんという事もない。これでもずいぶん工夫した句にちがいない。二番草取りも果さず穂に出て。どうも面白くない。二番草、ここが苦労したところだ。どうです。ちょっとした趣向でしょう? 取りも果さず、この言い廻しには苦労しました。微妙なところですからね。でも、まあ、これで、どうやら、ナンテ。ただ、ただ、苦笑の他は無い。何度も読んでいるうちに、なんだか、恥ずかしくなって来る。去来さん、どうかその「趣向」だけは、やめて下さい。
灰打たたくうるめ一枚
凡兆が、それに続ける。わるくない。農夫の姿が眼前に浮ぶ。けれども、少し気取りすぎて、きざなところがある。ハイカラすぎる。芭蕉が続けて、
此《この》筋は銀《かね》も見知らず不自由さよ
少し濁っている。ごまかしている。私はこの句を、農夫の愚痴《ぐち》の呟《つぶや》きと解している。普通は、この句を「田舎の人たちは銀も見知らずさぞ不自由な暮しであろう」という工合いによその人が、田舎の人の暮しを傍観して述懐したもののように解しているようだが、それだったら、実に、つまらない句だ。「此筋」も、いやみったらしいし、「お金が無いから不自由だろう」という感想は、あまりにも当然すぎた話で、ほとんど無意味に近い。「此筋」という言葉使いには、多少、方言が加味されているような気がする。お百姓の言葉だ。うるめの灰を打たたきながら「此筋は銀も見知らず不自由さよ」と、ちょっと自嘲を含めた愚痴をもらしてみたところではなかろうか。「此筋」というのは、「此道筋と云わんが如し」と幸田博士も言って居られたようであるが、それならば、「此筋」は「おらのほう」というような地理的な言葉になるが、私には、それよりも
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