がるものである。器用、奇智にあこがれるのである。野暮な人は、野暮のままの句を作るべきだ。その時には、器用、奇智などの輩のとても及ばぬ立派な句が出来るものだ。
湖の水まさりけり五月雨
去来の傑作である。このように真面目に、おっとりと作ると実にいいのだが、器用ぶったりなんかして妙な工夫なんかすると、目もあてられぬ。さんたんたるものである。去来は、その悲惨に気がつかず、かえってしたり顔などをしているのだから、いよいよ手がつけられなくなる。ただ、ただ、可愛いというより他は無い。芭蕉も、あきらめて、去来を一ばん愛した。二番草取りも果さず穂に出て。面白くない句だ。なんという事もない。これでもずいぶん工夫した句にちがいない。二番草取りも果さず穂に出て。どうも面白くない。二番草、ここが苦労したところだ。どうです。ちょっとした趣向でしょう? 取りも果さず、この言い廻しには苦労しました。微妙なところですからね。でも、まあ、これで、どうやら、ナンテ。ただ、ただ、苦笑の他は無い。何度も読んでいるうちに、なんだか、恥ずかしくなって来る。去来さん、どうかその「趣向」だけは、やめて下さい。
灰打たたくうるめ一枚
凡兆が、それに続ける。わるくない。農夫の姿が眼前に浮ぶ。けれども、少し気取りすぎて、きざなところがある。ハイカラすぎる。芭蕉が続けて、
此《この》筋は銀《かね》も見知らず不自由さよ
少し濁っている。ごまかしている。私はこの句を、農夫の愚痴《ぐち》の呟《つぶや》きと解している。普通は、この句を「田舎の人たちは銀も見知らずさぞ不自由な暮しであろう」という工合いによその人が、田舎の人の暮しを傍観して述懐したもののように解しているようだが、それだったら、実に、つまらない句だ。「此筋」も、いやみったらしいし、「お金が無いから不自由だろう」という感想は、あまりにも当然すぎた話で、ほとんど無意味に近い。「此筋」という言葉使いには、多少、方言が加味されているような気がする。お百姓の言葉だ。うるめの灰を打たたきながら「此筋は銀も見知らず不自由さよ」と、ちょっと自嘲を含めた愚痴をもらしてみたところではなかろうか。「此筋」というのは、「此道筋と云わんが如し」と幸田博士も言って居られたようであるが、それならば、「此筋」は「おらのほう」というような地理的な言葉になるが、私には、それよりも
前へ
次へ
全5ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング