しても、あのおかたのことは、お書きになれないお苦しさ、判るけれど、他にも苦しい女、ございます。」
だから、はじめから、ことわってある。名は言われぬ、恋をした素ぶりさえ見せられぬ、くるしく、――口くさっても言われぬ、――不義、と。
ああ、あざむけ、あざむけ。ひとたびあざむけば、君、死ぬるとも告白、ざんげしてはいけない。胸の秘密、絶対ひみつのまま、狡智《こうち》の極致、誰にも打ちあけずに、そのまま息を静かにひきとれ。やがて冥途《めいど》とやらへ行って、いや、そこでもだまって微笑《ほほえ》むのみ、誰にも言うな。あざむけ、あざむけ、巧みにあざむけ、神より上手にあざむけ、あざむけ。
もののみごとにだまされ給え。人、七度の七十倍ほどだまされてからでなければ、まことの愛の微光をさぐり当て得ぬ。嘘、わが身に快く、充分に美しく、たのしく、しずかに差し出された美事のデッシュ、果実山盛り、だまって受けとり、たのしみ給え。世の中、すこしでも賑やかなほうがいいのだ。知っているだろう? 田舎芝居、菜の花畑に鏡立て、よしずで囲った楽屋の太夫に、十円の御祝儀、こころみに差し出せば、たちまち表の花道に墨くろぐ
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